第88話 見守る男と挑む少女たち
よく晴れた秋の朝であった。
大きな窓から射し込む朝日が、まだ人影のまばらな冒険者ギルドのホールへ淡い金の筋を落としてゆく。
木製のテーブルはどれも冷たく静かで、清掃直後の床は薄い反射光を生んでいた。
遠くでは帳簿を捲る音だけがかすかに響き、静かな朝の空気に溶けていった。
その静かな一角で、シモンはひとり腰を下ろし、背もたれに身を預けながら足を組み、深い思案へ沈んでいた。
本来ならテラノス邸まで迎えに行くところだが、今日は二人だけの巡回討伐である。
初めて本格的に任せるのだから、心の準備くらいは自分たちで整えるべきだと考え、ギルドに来るよう指示したのは自分だ。
――自分で試練を与えておきながら、気に病んでどうする。
そう苦笑しつつも、胸の奥では微かなざらつきが消えない。指先には緊張の残滓があり、吐き出す息は浅く、落ち着きを装うには心許ない。
その時である。
「シモンさん、コーヒーどうぞ」
受付嬢のエリスが湯気を立てるカップを手に歩み寄り、柔らかい笑みを浮かべた。
「なんだか難しい顔していませんか?」
「そんな顔してたか?」
シモンは礼を述べて受け取り、一口含む。
浅炒りの香りがほのかに口の中へ広がった。
「してましたよ」
エリスは身を屈めるようにして覗き込み、声をひそめる。
「お二人の依頼のことですか?」
「エリスにはお見通しだな」
シモンはわずかに苦笑したが、視線は卓上へ落ちたままだ。
「確かに二人のこともあるが……だが、これは俺自身の問題でもあるんだ」
「シモンさんの?」
エリスは焦らず、彼の言葉を待つ姿勢を崩さない。
「俺は指導者として、本当に相応しいのか……」
そこまで口にして、シモンは続く言葉を喉の奥でそっと飲み込んだ。
(彼女らの成長を、知らぬうちに俺が止めてしまってはいないだろうか……)
「らしくもなく、考え込んでいたわけさ」
シモンは軽く目を閉じ、もう一口コーヒーを含む。
温かさが胸の奥へ落ちていき、ほんの一瞬だけ緊張が和らいだ。
「大丈夫ですよ」
エリスは、シモンがこんな迷いを見せるのが珍しいと言わんばかりに、そっと声音を柔らげた。
「ジュリアさんもハルカさんも、シモンさんを信頼しています」
「……信頼?」
「はい。だからシモンさんも、信じてあげてください」
シモンは短く息を漏らし、苦笑とも安堵ともつかない表情を見せた。
「……そうだな。ありがとう。気持ちが楽になったよ」
柔らかな微笑が向けられた瞬間、エリスの頬に薄紅が差し、わずかに視線を泳がせる。
エリスが言葉を紡ぐ前に、ギルドの扉が開いた。
吹っ切れた表情のハルカと、対照的に硬さの抜けないジュリアが姿を見せた。
今日は二人だけの任務ゆえ、コロンを危険に巻き込まぬため連れてきていないのだろう。
そのせいか、どこか心許なげにも見え、ジュリアの肩はいつもより硬く、歩幅もわずかに小さく感じられた。
シモンは立ち上がり、先ほどまでの思いつめた気配を微塵も残さない穏やかな笑みで二人を迎えた。
「おはよう、二人とも。早速だが、巡回討伐の依頼を受注してくれ」
「はいっ」
エリスは足早にカウンターへ戻り、必要書類を整える。
Dランクであるハルカが正式に依頼を受注し、書類を受け取った。
その直後、ジュリアが言い出しにくそうに唇を尖らせた。
視線はシモンへ向けているはずなのに、どこか落ち着かず、足元へ揺れているようにも見える。
「……ねぇ……本当に今日は二人だけでやるの?」
言葉の端にわずかな不安が滲んだように感じ、シモンは軽く眉を上げる。
「なんだ? 怖気ついたのか?」
軽口だったが、ジュリアはびくりと肩を震わせた。
その反応の速さに、シモンは“図星に近かったか”と内心で僅かに察した。
「そ、そんなんじゃないわよ! ただの確認よ、確認」
語気だけは強いが、声の揺れは隠しきれていない。
素直に「不安」と言えないあたりが彼女らしい――とシモンは思った。
一方で、隣に立つハルカはその対照のように、肩の力が抜け、呼吸も穏やかに整っているように見える。
迷いの色はもうどこにもなく、昨日まで胸の内にあった影をすっかり振り切ったような表情だった。
「そうか。ハルカ、お前は大丈夫か?」
「はい、問題ありません。いけます」
はっきりとした声に、揺らぎは一切ない。
ジュリアの不安げな硬さと、ハルカの吹っ切れた明るさ――その対比がより際立ち、シモンは二人の精神状態を一瞬で見抜いていた。
「よし、じゃあ早速行ってこい」
シモンは二人の背中を明るく送り出した。
ジュリアのわずかな緊張も、ハルカの強い意志も、今は全て見守るしかない――そう静かに思いながら。
緊張を抱えつつ前へ進もうとするジュリアと、迷いの消えたハルカの背中が並んで遠ざかる。
その姿が角を曲がり、完全に見えなくなるまで、シモンは目を離さなかった。
コーヒーを飲み干し、空になったカップを返却口へ置く。
「ごちそうさん。俺も出かけるとするよ」
「あら、どちらに行くのですか?」
エリスが、事情を察しながらも悪戯めいた瞳で問いかける。
「んん……ちょっとした野暮用だ」
シモンは視線を逸らし、頬を掻きながら誤魔化した。
「分かりました。行ってらっしゃい」
エリスは深くは問わず、さりげない笑みで送り出す。
その瞳には、シモンが何をしようとしているのか薄く察している色があった。
シモンは軽く手を上げ、朝光の射すギルドの扉を押し開ける。
背後には、入れ替わりに三、四人の冒険者が早足で入ってくる。
カウンター前には小さな列ができ、装備の金具が触れ合う音が談話スペースへ広がり始めた。
静けさはすでに薄れ、いつもの活気が戻りつつある。
扉を静かに閉じたその向こうへ、シモンは秋の陽射しを受けながら歩み去っていった。
その背には一片の迷いも見えず、歩幅も揺らぐことなく、静かに確かな足取りを刻んでいた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
指導者として迷いながらも、ジュリアとハルカを信じて送り出したシモン。
その直後に“野暮用”へ向かった彼が何をするつもりなのか、皆さまは察しましたか?
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