第87話 優しい魔獣の小夜曲
十月の夜気はひんやりと乾き、テラノス邸の窓辺には秋の深まりを告げる虫の声が細く響いていた。すでに夜半を過ぎ、邸内の灯りはまばらである。
ジュリアの私室にも、魔工灯の柔らかな橙光がひとつ灯っているだけで、静寂は水面のように澄んでいた。
夕食を終え、入浴も済ませ、後は寝台に入るだけ――夜の支度を終えたジュリアは、白い下着の輪郭がほのかに透ける深紅のシルクのナイトドレスだけを纏い、部屋の中央で静かに座していた。
胸元には薄紅色の極細レースがあしらわれ、肩紐は細く繊細な刺繍が施され、灯りを受けるたびに肌の気配が淡く浮かび上がる。
シルクの光沢が、成熟を迎える前の肢体に合わせてゆるやかに波打ち、まるで揺らぐ焔の衣をまとっているかのようだった。
日課となっている瞑想を始めてから、すでにどれほど経っただろうか。
傍らの小さなカゴには、愛玩魔獣のコロンが丸くなっており、半分夢の中に沈み込んでいる。ときおり「きゅい……」と寝息を漏らすその姿は、見ているだけで和むほどだ。
だが――。
ジュリアの胸の内は、落ち着きとは程遠かった。
深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
以前なら、それだけである程度は心が静まるはずなのに、最近はどうにも形ばかりの瞑想に終始していた。
意識を一点に集めようとすればするほど、胸の内側にざわめきが波紋のように広がり、集中を乱してしまう。
――無理ね。
どれほど続けても落ち着かぬ心を前に、ついにジュリアはそっと目を開き、瞑想を切り上げた。
原因は分かっている。
この胸のざわめきが、瞑想を拒んでいるのだ。
ふと、脳裏にシモンの声が甦る。
――「だが、何故あの場所で撃った?」
その一言が、夜の静寂の中でなお鋭く刺さる。
分かっている。
あの時、魔法を放った判断は――間違いじゃなかった。
実際、爆風にハルカを巻き込みはしたが、あのままでは二人とも……死んでいた。
あの一撃で死地を抜けたのは事実だ。
けれど……。
ジュリアは、きつく唇を噛んだ。
――あそこで撃った“場所”は、間違いだった。
ハルカが射線のすぐそばにいたことは、理解していた。
自分さえ動けば、角度はいくらでも作れた。
仲間を巻き添えにせずに済む選択肢だって、本当はあった。
ハルカが前線で敵を引き付けるのは、ジュリアに魔法の好機を作るため。
それを、どこかで“当然”と思ってしまっていた。
まるで、貴族が民の犠牲の上に悠然と立つように――。
その醜さが、ジュリア自身を深くえぐった。
――わたしは、醜悪だ。
その自己嫌悪こそが胸のざわめきであり、瞑想を破る正体だった。
ジュリアは、立ち上がった。
わずかに揺れるナイトドレスの裾が、静かな空気を払う。
「……コロン」
呼びかけると、カゴの中で丸まっていたコロンが、寝ぼけ眼でジュリアを見上げた。
「きゅ……?」
困ったような顔をして、小首をかしげる。
ジュリアは、思わず苦笑した。
言葉の通じない小さな魔獣に向かって、胸に溜め込んだ思いをこぼしてしまう。
「ねえ……わたし、嫌な子なのかな」
問いは夜に溶け、静かに空気へと散った。
するとコロンは、よたよたと起き上がり、ジュリアの元へと歩み寄った。
小さな手をそっと彼女の頬へ当て、優しく撫でる。
そのあと鼻先を寄せ――ちいさく、優しいキスをした。
「きゅい、きゅいっ」
尻尾をぱたぱたと振り、ぴょんぴょん跳ねながらジュリアを励ますように鳴く。
胸が、不意に熱くなった。
助けたはずのコロンに救われているのは、自分のほうだ。
小さな存在に救われているのだと気づいた途端、張りつめていた心の糸がほどけていくようだった。
「……ありがとう、コロン」
ジュリアはそっと抱き上げ、小さな身体を胸に抱きしめた。
その温もりに、どうしようもなく救われる。
迷いは晴れていない。
気分もまだ重いままだ。
けれど、隣に寄り添ってくれる温もりだけが、今は確かな支えになった。
ジュリアはコロンを抱いたままベッドに横たわり、静かに瞼を閉じた。
秋の夜は深く、その眠りは、どこか幼い安らぎに満ちていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
助けたはずのコロンに、今度は心を慰められたジュリア。
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コロンが可愛かった、心が温まったと思った方は、ぜひコメントで教えてください。
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