第86話 惑う明日と信じる忠義
十月の傾きかけた陽が、乾いた色を帯びてテラノス邸の中庭を斜めに照らしていた。
低く差し込む橙光は、落ち葉の積もる石畳に長い影を落とし、風が吹くたびにそれがかすかに揺れる。
ハルカは箒を握り、その影を追うように石畳を掃いていたが、動きに覇気はなかった。
落ち葉を払うはずの手は、どこか空を掴むように頼りなく、乾いた秋の空気がそのまま胸の内に入り込んでくるようだった。
――どうして、私はこんなにも落ち着かないのだろう。
ランクアップしたばかりの自分。
その肩にのしかかる責任の重みが、秋の冷たい風のように胸へ沁みてくる。
しかも、シモン様と同じDランク――。
いや、シモン様は意図的にランクを上げていないだけだ。
直接聞いたわけではないが、あの実力がDランクに収まるはずがない。
それでも「同じランク」だと思われることが、どうしようもなく気後れを生む。
シモン様からいただいた冒険者装束も、日々着慣れたはずのメイド服でさえも、ランクと同じように、今はどこか「身の丈に合わぬもの」に感じられてならない。
乾いた風がひと吹きすると、落ち葉が舞い上がり、石畳の上をさらさらと滑っていく。
ハルカはそれを追うように箒を動かしながら、胸の奥に沈む不安を、せめて表面だけでも掃き払おうとするように見せかけた。
(明日の巡回討伐……ジュリア様と二人きり。私は“私の役目”を全うできるのでしょうか。もし、失敗したら……)
そこで思考が暗く落ち込みかけた、その瞬間――
「おやおや、ハルカちゃん。元気がないのう」
柔らかな声が前方から飛び、ハルカははっとして振り返った。
気配に気づけなかった自分を恥じ、胸の奥がちくりと疼く。
「テ、テラノス様。申し訳ありません。気づかず……」
「よいよい。わしのほうが影が薄いだけかもしれんぞ?」
からかうような、しかしあたたかい笑みとともに、テラノスはゆったりと庭へ視線を移す。
夕陽に照らされた彼の横顔は、秋の静けさと同じく、どこか包み込むような柔らかさを感じさせた。
「掃除もよいが、ちょうど野菜の収穫時での。手伝ってくれんか?」
「……はい。すぐに片付けます」
ハルカは箒を置き、落ち葉の舞う中で収穫用のかごを受け取る。
籐のかごの軽い重みが、少しだけ心のざわつきを現実に引き戻してくれた。
乾いた風がまた吹き、二人の影が並んで長く伸びる。
その影を踏みしめるように歩きながら、ハルカはテラノスとともに菜園へ向かった。
テラノスはしゃがみ込み、熟れた紫が陽光を吸うように艶めくナスを指先でそっと持ち上げた。
「して、悩みごととは何じゃ?」
「っ……」
「爺はのう、物忘れが激しくてな。すぐ忘れるから、遠慮せず話してくれんかの」
軽い調子で向けられたその言葉に、ハルカは逡巡し、そっと俯いた。
やがて、秋風に背を押されるようにして、沈んだ胸の内を吐き出した。
「……私の、下らない……功名心のせいで。ジュリア様を危険にさらしてしまいました」
テラノスは一つ深く頷き、指先でナスの張りを確かめる。
それから穏やかな声で言葉を置いた。
「功名を求めるのは、恥じることではないぞい。儂だって若い頃は成果が欲しくてのう、がむしゃらになったもんじゃ」
かっかっと喉の奥で笑い、肩を揺らす。
「そんな性分と縁がないのは……そうじゃな、聖女のような出来たお人か、シモンのような変わり者くらいじゃろ」
「……ふふ」
短い笑みが、緊張に固まっていたハルカの表情を少しだけほぐす。
もぎ取られたナスを両手で受け取りながら、ハルカは小さく息を整え、かすかに震える声で続けた。
「ですが私は……そのシモン様の信頼も、失ってしまいました」
――“俺は背中を預けられない”。
小さく呟いた。
その言葉を思い出した途端、胸が鋭く締めつけられる。
秋風に紛れた声に、ハルカはそれを噛みしめるように目を伏せた。
テラノスは顎に手を添え、ふむ、と低く息を漏らした。
「シモンのやつ、見た目によらず厳しいことを言うのう。じゃが、本当に言われたのはそれだけじゃったか?」
そう言ってゆっくり振り返ると、ハルカの瞳を真正面から覗き込む。
「……え?」
「思い返してみい。正確にのう」
ハルカは目を閉じ、記憶の奥に沈む言葉をそっと掘り起こす。
「……『今のお前たちに、俺は背中を預けられない』……そう、言っていました」
「それじゃな」
テラノスは満足げに頷き、再びナスへ視線を落とした。
その横顔は、柔らかな陽の名残を受け、どこか諭すような年輪を帯びて見えた。
「『今のお前たち』。つまり、今のままではいかんぞい。もっと成長してくれ、と言っとるんじゃなかろうか。まぁ、言い方はアレじゃが、戒めもあったんじゃろ」
その穏やかな声音が、秋風に揺れる葉のように胸へ触れた。
ハルカの奥底で、固く縮こまっていたものがざわりと動き、瞳がわずかに揺れる。
「それにな……ハルカちゃんは、信頼を失っとらんと思うぞい」
「……えっ?」
思いもよらぬ言葉に、驚きのまま目を見開く。
テラノスは楽しげに口元を緩めながら、もいだナスを籠へ軽やかに放り入れた。
「シモンのやつはな、この前出張に出よる時、『俺がいない間、ハルカのこと、よろしくお願いします』と言っておったんじゃ。こんなこと、身内じゃなきゃ言わんわい」
「み……身内……?」
「うむ。血縁ではないが、それでも大事な身内というやつじゃ。信頼がなきゃ、そんな頼みはできんよ」
その言葉は、冷えた胸の奥へそっと温もりを落とすようだった。
ハルカは息を吸うと、胸の内にふわりと広がるあたたかさを確かめる。
「……ありがとうございます。大切なお話を……」
深々と頭を下げると、テラノスは満足げに頷いた。
夕映えの中、その仕草は、秋の日の光より柔らかく見えた。
菜園の収穫を終え、二人は裏手の小道を通って屋敷へと戻っていく。
十月の夕暮れは早く、斜陽の名残が地面に細い金の帯を落としていた。
その中で、ふいにテラノスが足を止める。
「ハルカちゃん……大きく育つんじゃぞ」
「……はい」
先ほどまで胸を締めつけていた重苦しさが、少しだけ和らいでいた。
その言葉を、今は素直に前向きな意味として受け止められる。
ハルカの返事に満足したようにテラノスは大きく頷き――
「このミーナのブラジャーのようにな!」
「はい……へ?」
思わず顔を上げた先は、物干し場だった。
風に揺れる彩り豊かな下着の列。その中でひときわ存在感を放つ、白いブラジャーがある。
白いレース地に細やかな刺繍が散りばめられ、清楚でありながら華やか。
そのカップは、横に吊るされた他のものより二つ、いや、三つは上をいく大きさだろう。
テラノスは誇らしげにそれを指差す。
「見事な育ちじゃろ? いやぁ、芸術品じゃ」
「……そ、その……」
ハルカは慌ててテラノスの視界を遮るように前へ躍り出た。
努めて無表情で振る舞うが、頬へ滲む赤みは隠しようがない。
「そ、それ……わ……私のです……」
「ぬっ……!?」
白目がちにテラノスの目が丸くなる。
「ハ、ハルカちゃん……お主、いつの間に……」
言葉を失ったまましばし呆然としていたが、
やがて感心したようにゆっくりと頷く。
「いや、いつだって若者の成長とは、年寄りの想像を超えてくるものじゃのう……!」
そう言いながら、スタスタと屋敷のほうへ歩いて行ってしまった。
ハルカは去っていく背を目で追いながら、そっと頬に手を当てた。
熱い――それなのに、胸の奥は驚くほど軽かった。
――救われた。
テラノス様のおかげで、今の自分をもう一度見つめ直すことができた。
「……ありがとうございました」
小さく呟いてから、ハルカは深く息を吸い込み、まっすぐにその背へ向けて静かに頭を下げた。
反省すべきことはきちんと反省し、受け入れるべきものは受け入れたうえで――
目指すべき自分へ、一歩ずつ進んでいくしかない。
ハルカは、今日という日の美しい夕陽に胸を揺さぶられ、そっと気持ちを改めようと思った。
きっと、これからも迷うことはあるだろう。
それでも――信じよう。
信じた先に忠義があるような気がした。
沈みゆく陽が庭の影を長く伸ばし、冷たく澄んだ風が頬を撫でる。
その風は、胸の奥に芽生えた小さな決意を、そっと後押ししてくれるようだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
悩むハルカを優しく励ましたテラノス――と思いきや、最後には思わぬ展開も。
二人のやり取りや、しんみりした場面との温度差をどう感じましたか?
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