第92話 黒兎の殺意と紅血の覚醒
草原に漂っていた柔らかな空気は、いつのまにか夕闇の匂いを帯びていた。
ひとしきり笑い合い、互いの存在を確かめあった後、ふと気づけば空は深い茜に沈みつつある。
夜がすぐそこまで迫っていた。
ジュリアとハルカは、先ほど倒したスラッシュバニーの魔石を拾い、帰る準備を整えていた。
完全に暗くなる前――“逢魔が時”が深まる前には街へ戻れるはず。そう計算していたその時だった。
「――ッ!」
ハルカが、空気の裂けるような鋭い殺気に振り返った。
夕闇の草原には、何もいない――ように見えた。
だが次の瞬間、空から深い影が滑空してくるのが見えた。
スラッシュバニーだ。
巨大な耳を翼のように広げ、一直線にこちらへ向かって来る。
「危ない!」
ジュリアが振り向く間もなかった。
ハルカが飛びつくようにジュリアへ体当たりし、そのまま二人は地面を転げた。
直後、影は先ほどまでジュリアのいた場所へ鋭い爪を叩きつけ、土煙が爆ぜた。
二人はすぐに立ち上がり、戦闘態勢を取る。
しかし――目に映ったその“姿”に、息が止まった。
(……これ、が……?)
スラッシュバニー。
だが、さきほど戦った個体と“同じ”とは、どうしても思えなかった。
体毛は灰白ではなく――黒灰色。
その黒は夕闇の中で沈むどころか、むしろ光を吸い込み、膨張するように見えた。
全身には無数の傷が刻まれ、その傷から赤黒い血が滴り落ち、ぽたり、ぽたりと草地を汚していく。
そのたびに生暖かい鉄臭がふっと漂い、ジュリアは肺の奥がざわつくのを感じた。
それだけではない。
大きい。
先ほどの個体より一回り……いや、二回りは巨大だった。
爪も、前歯も、耳も、異様なほど肥大している。
とくに耳はひくり、ひくりと高速で震え、まるで発狂寸前の生物が外界のあらゆる刺激に過敏反応しているかのようだった。
そして、そこから溢れ出る気配は、さきほどの比ではなかった。
ぎらつく瞳。
涎を垂らした口元。
呼吸は浅く速く、いつ弾けてもおかしくない、不安定なリズムで震えている。
理性の欠片も感じさせない、獣の本能そのもの――いや、それ以上の“危うさ”があった。
見ているだけで肌が粟立ち、ジュリアは一瞬、足が止まりそうになるほどだった。
(…………こ、怖い)
圧倒的な異常性を前に、強がることすらできなかった。
だが、黒い巨影がジュリアの心情を汲むはずもなく、呼吸の間すら与えず突進してきた。
「来ます!」
ハルカが前へ出るより早く、黒いスラッシュバニーの影が迫る。
ぎりぎりで振りかぶりの一撃を躱し、地面が抉れた。
いや……爆発した。
重さと鋭さが、通常の個体とは比べ物にならない。
ハルカは攻め込まれながらも、持てる体術の全てで躱し続け、隙を見つけると、爪へ蹴りを叩き込む。
しかし――怯まない。
むしろ、さらに戦意を燃え上がらせ、獰猛に突進してくる。
「ハルカッ!」
ジュリアは横からファイア・ボルトを連発した。
すっかり復調し、精度も威力も戻っている――だが。
(……当たらない!?)
黒いスラッシュバニーはその全てを回避する。
復調したジュリアの魔法ですら捉えられない。
(どうする……どうすれば……)
ジュリアは思考を切り替え、威力を押さえたファイア・ボルトをさらに続けざまに放つ。
爆ぜる炎矢が黒い影の行動範囲を削っていき――。
「今!」
詰まった位置へ、本命の高密度のファイア・ボルトを放つ。
だが。
黒いスラッシュバニーは、前腕でその炎矢を叩き落とした。
(火が……効かない……!?)
完全に無傷ではない。
だが“弱点”とは到底思えない耐性だった。
怒りの気配が、怒涛のようにジュリアを呑みこむ。
禍々しい赤い瞳が、ジュリアを殺意で射抜く。
――その瞬間。
黒い巨体の“背後”が霞んだ。
ハルカが気配を消し、忍び寄っていた。
忍刀が閃き、黒いスラッシュバニーの左目を切り裂く。
「ガアアアアァァッ!!」
悲鳴を上げ、黒い巨体がたたらを踏む。
(行ける……!)
そう思い攻勢に転じようとした――その刹那。
黒いスラッシュバニーが、魔力を帯びた雄たけびを放った。
「グギャァァァァッ!!!」
「――ッ!」
ハルカが一瞬、身体を強張らせる。
ジュリアの魔力も揺らぎ、集中が乱れる。
それでも、ハルカは前へ出た。
「ハルカ……!」
不利な体勢のまま、無理やり敵の注意を引き付ける。
ハルカが時間を作ってくれているあいだに、有効策を考えるのは私の役目。
――だが……。
(勝ち筋が……見えない……!)
ジュリアの胸は、冷たい焦りにぎゅっと締めつけられた。
防戦一方のハルカに、ついに赤黒い爪が襲いかかった。
脇腹を鋭く裂かれ、鮮血が飛び散る。
「ハルカッ!!」
それでもハルカは、倒れ込みそうになる身体を必死に堪えた。
ふらつく足を踏みしめ、なおも前へ進もうとする。
黒い影がトドメとばかりに爪を振り下ろす。
――その瞬間。
ハルカは一か八かで前へ出た。
大振りの動作をかいくぐり、一気に懐へ潜り込む。
残る右目を――切り裂くために。
だが。
黒いスラッシュバニーは、狂奔の勢いのまま頭突きで迎撃した。
「――ッ!」
直撃。
ハルカは吹き飛ばされ、地面を転がり、岩場へ激突してようやく動きを止めた。
額からは血が流れ、爪によって深々と裂かれた脇腹からは、夥しい出血が白い脚を赤く染めていた。
意識こそ保っているものの、ハルカは痛みに顔を歪め、荒い呼吸を漏らしながら、ゆっくりと身体を起こす。
その動き一つ一つが、まるで拷問に耐えるかのように苦しげで、見ているだけで痛みが伝わってくるほどだった。
やっとの思いで立ち上がったハルカだったが、一歩踏み出した瞬間、膝が崩れ、どさりと無防備に倒れ込んだ。
「ハルカッ!!」
今前へ出ることは、自分の身を危険に晒すと分かっている。
だが――自分のために身を挺してくれたハルカを、このまま見捨てておけるはずがなかった。
ジュリアが駆け寄ると、黒い巨体もまたハルカを目掛けて一直線に突進してくる。
「こんのぉケダモノがッ!」
ジュリアは走りながら、怒りに任せてファイア・ボルトを撃ち込む。
炎矢が何発も直撃する――だが、血の匂いに狂った黒いスラッシュバニーは止まらない。
もはや痛覚など存在しないかのようだった。
二人と一匹の距離が――詰まる。
「……っ!」
ハルカの元へ辿り着いたのはほぼ同時。
いや、一瞬だけジュリアが早かった。
振り返ると、すでに黒い獣が眼前へ迫り、必殺の爪を振りかぶっている。
その時二人と一匹の間に一陣の突風が吹き込み、黒い獣に躊躇が生まれた。
ジュリアは怯まず、地面へ手を当てた。
「ファイア・ウォール《轟炎防壁魔法》!!」
地面が裂け、轟炎が噴き上がる。
防壁は一瞬で立ち上がり、黒いスラッシュバニーは真正面から炎を浴び、悲鳴を上げながら跳び退いた。
ジュリアは即座にハルカへ視線を向ける。
「ハルカ……!」
ジュリアの呼びかけに、ハルカは弱々しく瞼を痙攣させ、辛うじて開く。
まだ意識を保っているようだが、素人目にも重症であることは確実だ。
ジュリアはベルトからヒール・ポーションを二本抜き、一本を脇腹にかけ、一本をハルカの口へ流し込む。
脇腹の傷は塞がり、ヒール・ポーションを飲み干すと、一呼吸ついてハルカはふらふらと立ち上がった。
「あ、ありがとう……ござい……ます」
ハルカの悲痛な姿を見て胸が詰まる。
回復したと言っても傷が塞がっただけだ。
ダメージは残っているだろうし、失った血は戻っていない。
それでもハルカは前に出ることを止めない。
戦うことを躊躇わない。
進退は極まった、
ハルカの姿を見て悟らざるを得ない。
生き残るためのたった一つの方法。
戦うしか道はない。
いや、違う――戦って勝つしかない。
この絶望的な状況で“自分の命”を賭ける覚悟はできた。
――だが。
ジュリアは言葉にするまで、一呼吸ぶんだけ逡巡した。
そして――非情な作戦を口にする。
「……ハルカ……ハルカの命を、私に預けて」
「え……?」
その言葉に、ハルカは驚きを隠せなかった。
「……魔血を覚醒させるわ」
短い一言に込められた決意と危険性。
その真意を悟ったであろうハルカは、静かに頷く。
「私が……その時間を稼ぎます」
そう告げると、ハルカは自分が携帯していたヒール・ポーションを一気に飲み干し、黒いスラッシュバニーに向かって駆けていった。
(……ごめんね、ハルカ)
ジュリアは胸の奥でそっと呟き、意識を戦いへと切り替えた。
――魔血覚醒。
訓練で、一度も成功したことのないもの。
それでも、今はそれしかない。
土壇場で。
この状況で。
二人は、成功する保証のない手段に――命を賭けた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「ハルカの命を、私に預けて」――絶体絶命の中、魔血覚醒を選んだジュリア。
その言葉を信じ、迷わず時間を稼ぐことを選んだハルカとの信頼をどう感じましたか?
二人への応援や印象に残った場面があれば、ぜひコメントで教えてください。
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これからもよろしくお願いいたします。




