第93話 魔血覚醒と臨界決着
ハルカが重たい身体を振り切って、前線へ駆けていく背中を見送り、ジュリアは静かに目を細めた。
胸の奥に渦巻く焦燥を押し込み、深く息を吸い込む。
(……落ち着いて。まず精神の調律から……)
自然体で立ち、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
吸う──吐く──そのたびに心が澄まされていく。
魔法の基本は、精神の調律。
こんな時だからこそ、基本に立ち返る必要がある。
だが視界の端では、ハルカがまだ戦っている。
ふらつきながらも猛攻をいなし、踏み込み、必死に時間を稼いでいる。
その奮闘を目にしながら、ジュリアはさらに集中を高めた。
だが――。
(……来ない……魔血が……反応しない……)
目を閉じずともわかる。
身体の奥で眠るはずの“血”は、沈黙したままだった。
(お願い……私の中の魔血よ……応えて……)
必死の呼びかけ。
だが沈黙は破れない。
ジュリアは自覚した。
胸を締めつける“焦り”が、覚醒を阻んでいるのだと。
その瞬間、戦況が揺れた。
「――ッ!」
ハルカがふらついた。
ほんのわずかな隙。
黒いスラッシュバニーの爪が、容赦なく迫る。
「ハルカ!!」
叫んだときには遅い。
避ける猶予はすべて失われていた。
だがハルカは苦肉の策で、一歩――通常なら絶対に踏み込まない距離へ足を滑り込ませた。
鋭い爪の軌跡を、紙一重で潜り抜けた。
しかし避けきれたのは爪だけだった。
振り抜きの勢いは殺せず、黒い前腕がその身体を弾き飛ばす。
「っ……!」
吹き飛ばされたハルカは、両足で着地できず、草地へ伏せるように倒れ込んだ。
だが、そのまま終わらない。
ハルカはすぐさま立ち上がると地を蹴り、よろめきながらも黒い獣に対峙した。
身体は限界に近い。
それでも退かない。
その背に揺るぎない覚悟が見えた。
(このままじゃ……ハルカが……ハルカが……死ぬ……!)
ジュリアは直感した。
ここから先、ハルカはもう長く保てない。
(……このままじゃダメ)
焦りを押し殺し、ジュリアは考えを改めた。
助けたい。
――だからこそ。
彼女はもう一歩、非情になることを決意した。
(……ハルカを助けたい。だからこそ、いまは……いまだけは……ハルカのことを意識から排除する)
ジュリアは意図的にハルカの事を考えず、集中すること以外の一切を切り捨て、呼吸を繰り返しながら、自分の内側へと呼びかけた。
……
…………
………………ピクッ
その瞬間だった。
身体の奥で、何かが反応した。
(……もしかして……!)
ジュリアは迷わなかった。
続けて――目を瞑った。
戦闘中に視界を閉ざすのは、自殺行為に等しい。
それでも構わなかった。
(命を賭ける……そう誓ったんだ!!)
瞳を閉ざし、全ての意識を自分の内側へと沈めていく。
集中が深まるにつれ、風が頬を撫でる感覚すら消えた。
血の匂いも途切れた。
黒い獣の咆哮すら、遠い世界の出来事のように薄れていく。
……
…………
……………………ドクンッ!
――来た。
血液が熱を帯び、体中を駆け巡る。
魔力が脈打ち、沸騰し、暴れ出す。
全身へ押し寄せる紅い奔流。
それはもはや“力”ではなく“暴風”だった。
押さえきれない魔力が体外へ溢れ出した。
ジュリアの身体は紅い魔力の奔流に飲まれ、スカートの裾がめくれ上がり、髪がスカーレットに染まりながら激しく靡いた。
「くっ……!」
だが、暴れ狂う魔力を練り込むことはできない。
(熱い。体中が焼けるように熱い)
熱に苦しみ制御ができない。
このままでは、自身が生み出した魔力に自身が焼かれ、滅ぼされる。
(せっかく覚醒できたのに……このままじゃ……)
弱気がよぎった。
その一瞬に、歯を食いしばり――ジュリアの魂が叫んだ。
(違う……違う、違う、違う、絶対に違う!!)
左手へ、魔力を集中させる。
昨晩の涙も、今朝の不安も、すべて押し込めるように。
(アタシを信頼して命を賭けてくれたハルカ――、アタシを信頼して送り出してくれたシモン――、その信頼に応えてこそ、ジュリア・アーデルシアよ!!)
全身の魔力が、一気に体中を駆け巡る。
内なる暴風が収束し、奔流は形を成し、灼熱は一本の芯へと変わる。
ジュリアの瞳が――開かれた。
深紅に。
「ハルカ!!」
その叫びと同時に、ハルカが渾身の蹴りを放った。
黒いスラッシュバニーの頬を弾き、その反動で距離を取る。
(いける……!)
ジュリアは左手を掲げた。
「燃え尽きなさい、ケダモノっ!!《インファーナル・クリムゾン(灼熱の紅血)》!!」
放たれた瞬間、世界を紅に一変した。
地面から立ち昇る灼熱の奔流が黒いスラッシュバニーに襲いかかり、深紅の塔が螺旋を描いて天を貫く。
「ギャオァァァ!!」
黒い獣の絶叫が響き渡る。
だが燃え尽きない。
肉体は灼け爛れながらも、恐るべき生命力は形を保っていた。
そして次の瞬間。
螺旋の奔流は勢いを増し、距離を取ったはずのハルカへ――吸い寄せるように伸びた。
「っ……!!」
深紅の塔の引力から、必死に逃れようとするハルカ。
しかし塔はじわじわと彼女を引き寄せる。
「ダメ、ハルカは傷つけない……傷つけさせない!!」
ジュリアは左手で魔法を放ちながら、右手を鋭く突き出した。
両手で“球”を思い描き、胸の前で押し合わせる。
すると――。
ハルカを引き寄せていた力が、ふっと消えた。
深紅の塔は急速に圧し潰され、渦は収束し、巨大な炎の塊は球体の形へと変わる。
「これで終わりよ!《クリムゾン・コア・インフェルノ(紅核の獄炎)》!!」
その名は、初めて魔血に目覚めた時と同じ。
血に刻まれた記憶が、ジュリアへ告げていた。
一帯を覆っていた夜の帳を、真昼の太陽が強引に引きはがすかのように、紅い光が煌々と辺りを照らし出した。
球体はさらに圧縮され――ついに臨界へと到達する。
瞬間、世界は紅に染まり、爆ぜた熱風が草原を抉り取った。
轟音とともに炎が消え去った後、そこに残ったのは――魔石だけだった。
黒いスラッシュバニーが紅の烈火に呑まれ消滅したのを見届けた瞬間、緊張の糸がぷつりと切れたかのように、ジュリアは膝をつき、そのまま前のめりに倒れた。
「ジュリア様!」
覚束ない足取りで、ハルカがふらつきながら駆け寄る。
抱き起こしたジュリアの呼吸は浅く乱れ、額には玉の汗がびっしりと浮かんでいた。
ハルカはすぐさま最後の一本のヒール・ポーションを取り出し、震える手で栓を抜くと、慎重にジュリアの唇へと傾けた。
「ジュリア様……ジュリア様!」
必死の呼びかけに応えるように、ジュリアの目じりがかすかに震え、ゆっくりと瞼が開いていく。
「……『ジュリア』……でしょ。様付けは、止めて……」
弱々しくも穏やかな微笑みが零れた。
「ジュリア様……」
「……もう」
そんなやりとりに、ハルカの瞳には涙が溜まり、ジュリアは困ったように息を漏らす。
そして、ジュリアは口元に添えられたポーションの瓶を、そっとハルカへ差し向けた。
「口付けちゃったけど……残りは、ハルカが飲んで。そして……帰りましょ。二人で……」
「はい!」
ハルカは目元を拭い、明るく返事をすると、ジュリアをぎゅっと抱きしめた。
気がつけば、周囲は再び夜の闇に支配されていた。
焼けた草の匂いがほんのり漂い、熱気の残る空気を、秋の冷たい風が攫って行く。
その風の中で感じる、ハルカの温かな鼓動。
ジュリアは確かに、生きていることを実感していた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ハルカとシモンから託された信頼を力に変え、ついに魔血を覚醒させたジュリア。
《インファーナル・クリムゾン》から《紅核の獄炎》へと至った決着を、どう感じましたか?
そして、最後まで互いを想い、「二人で帰る」ことを選んだ二人をどう思いましたか?
ジュリアの成長や印象に残った場面があれば、ぜひコメントで教えてください。
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