第94話 導く男の葛藤
北へ伸びる街道。
その西側に寄り添うように広がる、小さな雑木林の一角で、シモンは一本の木の幹に手を添え、視線だけを前へと向けていた。
木々の隙間から見えるのは、平原の外れ――黒いスラッシュバニーの魔素が霧散し、魔石だけが残され、その側に立つ二つの小さな影だ。
ジュリアとハルカ。ようやく、激闘が終わったのだと、その背中の佇まいが物語っていた。
ふっと、張りつめていた呼吸が切れる。
シモンは手を押し付けていた木の幹に背を預けて、そのままずるりと腰を落とした。
乾いた落ち葉が、わずかな音を立てて散る。
膝を立てて座り込むと同時に、肺の奥に溜まっていた空気を、大きく吐き出した。
秋風が、林の中にも吹き込んでくる。
先ほどまでの緊張がほどけたせいか、肌に触れる風は少しばかり冷たく感じられた。
額にはじっとりと汗がにじみ、こめかみまで伝っていく。
握っていた剣に視線を落とすと、白く強張った指が柄に食い込んでいた。
手に、力が入りすぎている。
意識して力を抜こうとしても、指は言うことを聞かなかった。
戦っていたのは自分ではないというのに、まるで全身で殴り合いをした直後のような疲労感がある。
(……見ているだけってのは、こんなにきついもんだったか)
自嘲気味な思いが胸を掠める。
何度、飛び出しかけたか分からない。
ハルカが身を挺して前に出たときも、ジュリアが苦しげに膝をついたときも、足は勝手に地面を蹴ろうとしていた。
二人が危険に晒されるたびに、喉の奥が焼けつくような焦燥で満たされる。
自分が傷つくほうが、よほど気が楽だっただろう――そんな考えが、何度頭をよぎったか知れない。
だが今は、動けない立場を自分で選んでいる。
一度だけ、それでも堪えきれなかった局面があった。
直接手を出すのは避けたが、あれは限りなくグレーに近い。
二人と敵の間に、風を纏った斬撃を飛ばした。
殺気が乗ってしまったのは無意識だった。
あの瞬間に限っては、そうでもしなければ本当に命を落としかねなかったと、自分に言い訳するように思い返す。
(……あれくらいは、許される範囲だろ)
小さく息を吐き、シモンは木の幹に頭をもたせかけた。
目を閉じると、つい先ほどまでの激闘が、鮮やかに脳裏に蘇る。
汗と土埃にまみれ、何度も歯を食いしばりながら、それでも立ち上がり、戦い続けた二人の姿が。
ハルカは、よくやった。
自分なりの役割を理解し、最後まで全うした。
前衛としての壁であり、ジュリアを守る盾であり続けた。
腕も脚も傷だらけで、体力も限界に近かったはずなのに、一度として「逃げる」という選択肢を選ばず、ジュリアを信じ続けた。
ジュリアもまた、よく立ち直った。
あれほどまでに迷い、苦悩していた少女が、最後には自分の足で一歩を踏み出し、自らの魔血に手を伸ばした。
誰かに引きずり出されるのではなく、自分自身の意志で、あの境地に辿り着いたのだ。
シモンは、無意識のうちに口元を綻ばせていた。
自分がかけた期待以上の答えを、二人は持ち帰ってきた。
決して綺麗な形ではなかった。
泥臭く、危なっかしく、紙一重だった。
それでも――だからこそ、心の底から「よくやった」と言える。
同時に、胸の奥に引っかかる棘を、無視することができなかった。
実戦でしか得られない経験がある。
強敵と向き合わなければ開かない扉がある。
死線を越えた者にしか見えない景色がある。
――それは、誰よりもシモン自身が、身をもって思い知らされてきたことだ。
けれど。
だからといって、いまのやり方が最善だったかと、胸を張れるかと言われれば、答えに窮する。
あの黒いスラッシュバニーは、一歩間違えれば、どちらか一人が――もしくは二人とも、無事ではすまない相手だ。
(もっと、安全なやり方が……なかったと、言いきれるか?)
自問は、空しく林の中に溶けていく。
導く者として、どこまで危険を許容するべきか。
どこで手を出し、どこで黙って見送るべきか。
その線引きを誤れば、育つはずの芽を自分が摘み取ってしまう一方で、守れるはずの命を失うことにもつながる。
シモンは、握ったままの剣の柄に視線を落とした。
指導者としての自分の至らなさが、鈍い痛みとなって胸を締めつける。
正解がどこかに書いてあるわけではない。
今の彼に、すぐに答えを導き出せるほどの器用さもなかった。
しばしの間、風と葉擦れの音だけが耳をくすぐった。
やがて、木々の隙間から見える光景に変化が訪れる。
平原に立っていた二人の少女が、ゆっくりと動き始めたのだ。
黒いスラッシュバニーが残した魔石を回収し、互いに何か言葉を交わしたのち、街道のほうへと背を向けて歩き出す。
遠目には、その表情までは分からない。
それでも、さきほどまでとは違う何かを、その背中に感じた。
重いものを一つ手放したような、それでいて新たな責任を背負ったような――そんな雰囲気が、距離を隔てたシモンにも伝わってくる。
シモンは、そっと目を細めた。
木々の影に身を隠している限り、二人がこちらに気づくことはないだろう。
彼女たちは彼女たちの戦いを終え、自分たちの足で街へ戻っていく。
その背中を、最後まで見送るのが、今日の自分に課された役目だった。
(……よし)
ひとつ深呼吸をして、シモンは地面に突いていた手に力を込め、立ち上がった。
ようやく指先の強張りも和らいできたのか、剣の柄から手を離すことができる。
鞘に収め直した剣の重みが、腰に心地よく収まった。
「次は、俺の番だな」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。
この先の街道沿い、小高い丘の上に、先ほどから微かな視線が滞っているのを、シモンはずっと感じ取っていた。
ジュリアたちの戦いを、自分とは別の意図で見つめ続けていた存在――それが何者であれ、放置していい類のものではない。
考えを切り替えると、胸の奥のざらつきが少しだけ薄れた。
見守るだけの役目は、もう終わった。
これから向かうのは、自分の領分だ。
裏からこそこそと教え子に手を伸ばそうとする連中と対峙し、その目論見を叩き折る――それだけのことなら、迷う余地はない。
シモンは、木の幹から背を離し、雑木林の外れへと駆け出した。
踏みしめる落ち葉が、かさりと音を立てる。
先ほどまでの重苦しさが嘘のように、足取りは軽かった。
見守るよりも、正面からぶつかり合うことを、望んでいると言わんばかりに。
やがて、木々の間から街道の白い土が見えてくる。
ジュリアたちが歩き去っていった方角とは少し外れた位置へと抜けながら、シモンは視線を先の丘へと向けた。
その先にいる「何か」との対面を思い描き、口元に僅かな笑みを浮かべる。
秋の風が、再びシモンの頬を撫でていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
手を出したい気持ちを堪え、二人の成長を信じて見守り続けたシモン。
指導者として「どこまで見守り、どこで手を差し伸べるべきか」と悩む彼を、どう思いましたか?
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