第95話 壊楽と白影
小高い丘の頂には、二つの影が立っていた。
一人は、遠目にも分かるほどの大柄な男だった。
筋肉がシャツの布地を内側から押し上げており、袖口や胸元から覗く肌は、戦いと風雪に晒され続けたのか、荒れた質感をしている。
上半身はほとんどシャツ一枚という有様で、その簡素な装いさえ、まるで自らの肉体を誇示しているようだった。
長く伸ばした髪は乱暴に後ろへ流し、粗野な面構えに、悪意と自信だけを詰め込んだような笑みを浮かべている。
片手で担いでいるのは、人間の背丈を優に超える巨大な戦鎚――それを何でもない棒切れのように肩に載せている姿は、いっそ異様ですらあった。
もう一人の男は対照的に、全身を黒を基調とした忍装束で覆っている。
長身ではあるが、布越しに見て取れる線は細く、無駄な肉の一切ない鍛え上げられた体躯であることを窺わせた。
首には長い布が巻かれ、口元から鼻先にかけてを隠しているため、表情は読み取れない。
ただ、露出している双眸だけは、夜の底を思わせるほどに鋭く光っていた。頭髪は雪のように真っ白で、年齢を測りかねる異様さがある。
丘の上から見下ろす先――さきほどまでジュリアたちが死闘を繰り広げていた平原を眺めながら、大男が肩に担いだ戦鎚を揺らし、喉の奥で笑った。
「アレが魔血の力かよ。くっくっく、最高じゃねぇか、最高にイカしてるぜ。あの力が手に入れば……なあ?」
問いかけられた忍装束の男は、すぐそばに立ちながらも、まるで聞こえていないかのように一言も発さない。
ただ、視線だけを平原に固定し続けている。
「…………」
沈黙。
大男は舌打ち混じりに顔をしかめた。
「チッ、つまんねえ奴だ」
悪態を吐いても、忍装束の男は動じない。
だが、その鋭い眼差しはふいに平原から外れ、街道へと続く坂道の闇へと向けられた。
大男もつられてその方向へ視線を向ける。
やがて、闇に沈んでいた坂道の下から、ひとつの影が現れた。
ゆったりとした足取りで坂を上ってくるのは、旅人にしては妙に場慣れした立ち姿の男だった。
シモン・マックイーンだ。
シモンは二人の立つ丘の頂を見上げながら、穏やかな笑みを浮かべたまま姿を現した。
「おや? こんなところで何をしているんですか? 面白いものでもありましたか?」
柔らかな声音での問いかけに、大男は目を細め、露骨な敵意をそのまま吐き出す。
「ああ? 何だてめぇ? 怪我しないうちに失せな、色男」
ぬけぬけとした物言いに、普通の旅人ならばすぐさま退くか、怯えた様子を見せるだろう。
だが、シモンはにこにこと口元の笑みを崩さない。
足も止めず、しかし一定以上距離は詰めない絶妙な間合いで、二人と対峙する。
(――あからさまに、こっちを敵と決めつけた顔だな)
シモンが内心でそう評したそのとき、業を煮やしたように大男が一歩、前へと踏み出した。
戦鎚の柄を握る手に、ぐっと力がこもるのを見逃さない。
その動きとほぼ同時に、シモンは軽く息を吸い込み、ぽつりと一語だけ落とした。
「魔血」
その小さな一言が、秋の空気を震わせる。
大男の顔色が、はっきりと変わった。
吐き出しかけていた罵声が途中で引っ込み、代わりに露骨な警戒と苛立ちが浮かび上がる。
シモン・マックイーンは、挑戦的な笑みを浮かべた。
「おまえら、ペイン・アセンダンツだろ? 俺の教え子にちょっかい出すのは、やめてもらおうか」
「てめぇ、何者だ?」
大男が唸るように問い質す。
シモンは肩をすくめて、さほど重要でない情報でも差し出すような軽さで名乗った。
「シモン・マックイーン。しがないDランク冒険者さ。そういうお前たちは……『マッチョ君』と『忍者君』でいいのかな?」
大男が鼻を鳴らした。あからさまな侮蔑にも聞こえる呼び方だが、怒りよりも先に自尊心が刺激されたのか、むしろ誇示するように胸を張る。
「俺はペイン・アセンダンツの導師、壊楽のダムド、こいつは白影の――」
「やめろ」
得意げに声を張り上げた大男――ダムドと名乗った男が、相棒を親指で指し示し、異名を言いかけたところで、忍装束の男が低く短く制止の声を発した。
その一言は、風のすら押しとどめるような鋭さを帯びていた。
(壊楽のダムドは、異名プラス名前ってことか。白影は……異名だけか)
シモンは何気ない風を装いながら、敵が自ら差し出してくれた情報を頭の中に並べていく。
「チッ、まあいい。魔血と教団を知っているなら生かしちゃおけねぇ。大人しくミンチになりな」
ダムドは舌打ち混じりにそう言うと、肩に担いでいた巨大な戦鎚を両手で構え直した。
歪んだ笑みが顔全体に広がり、暴力への欲求が空気を濁らせる。
シモンは、その様子を眺めながら、あくまで穏やかな声色を崩さない。
「じゃあ、冥途の土産ってことで教えてくれ。あの黒いスラッシュバニーは、お前らの仕業か?」
一瞬、ダムドの動きが止まった。
勢いよく振りかぶろうとした戦鎚が、その場でぴたりと静止する。
気勢を削がれたことへの苛立ちか、それとも答えをどうするかの逡巡か――。
だが、次の瞬間には、大男はわざとらしく大きな溜息を吐き出していた。
「あーあー、うっぜえな。……あれは教団の実験体だ。人間相手にできたことが、モンスター相手にできるかの実験だよ」
シモンは目を細めた。
もともと、ただカマをかけただけの問いだった。
あの黒いスラッシュバニーが自然発生でないことは、状況から半ば確信していたが、情報を引き出せるとは限らない。
それが、こうもあっさりと口から飛び出してくるとは。
(……本当に喋るとは……馬鹿なのか? それともブラフか?)
思いもよらぬ情報を得られた驚きと、あまりの情報管理の甘さに、シモンは心の中で唖然とした。
「さあ、もう心残りもねえだろう。あっけなく死んじまいな」
ダムドが吠える。
次の瞬間、巨大な戦鎚が唸りを上げて横一文字に薙ぎ払われた。
常人ならば、光景を認識するより先に骨ごと粉砕されるような速度と重量だ。
だが、シモンは剣さえ抜かなかった。
口元に手を当て、先ほど得た情報の意味をまだ脳裏で反芻しているかのような素振りを見せながら、足を一歩だけ後ろに引く。
そのわずかな後退だけで、戦鎚の軌道から身を外す。
風圧だけで外套の裾が大きく翻った。
ダムドは、自分の一撃が空を切ったことに、目を剥いた。
「は……?」
驚愕の表情が顔中に浮かび、その直後、まるで歯牙にもかけていないシモンの態度に、激しい怒りが燃え上がる。
「この……!」
怒りのままに、ダムドは戦鎚を振り回し始めた。
右から左へ、上段から叩きつけ、足元を薙ぐ。
どの一撃も、当たりさえすれば地面ごと粉砕しそうな破壊力を孕んでいる。
だが、シモンの身体は、別のリズムで動いていた。
ひょい、と右へ。
すっと左へ。
ときには軽く膝を曲げて屈み、ときには軽く身体をのけ反らせて距離を調整する。
その一連の動きは、まるで音楽に合わせてステップを踏む、社交界の主役のように、しなやかで、無駄がなく、美しかった。
(……大した膂力だ。悪くはない……が、単調すぎる)
土煙だけを撒き散らし続ける戦鎚の軌跡を見送りながら、シモンはふっと息を吐く。
適当なタイミングでバックステップを一つ大きく踏み、ダムドとの間合いをひと呼吸分だけ広げた。
そこでようやく、口元から手を放し、親指で隣の忍装束の男――白影を指し示す。
「お前、あいつより格下だろ?」
「あぁ?」
「アイツは俺に視線を悟らせなかったし、俺の存在にも気づいていた。それなのにお前ときたら……はぁぁ……」
唐突な言葉に、ダムドが呆気にとられたような顔をした。
言葉の続きは、敢えて最後まで口にしない。
だが、そこまで言われれば、何を指しているのかは誰にでも分かる。
ダムドの顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
怒りと屈辱が入り混じったその表情は、もはや理性の残り火すら吹き飛ばしていた。
「俺は、俺は――導師、壊楽のダムドだぁぁぁ!」
叫びと共に振り下ろされた一撃は、これまでで最も重く、最も速かった。
大地を砕き、空気を震わせるに十分な質量が、一本の軌跡となってシモンへ迫る。
その瞬間――初めて、シモンの右手が腰の剣へと伸びた。
鞘走りの音が、短く空気を裂く。
抜き放たれた刃が、迫る戦鎚を斜めに薙いだ。
逆袈裟の一閃。
その軌道に、ためらいも迷いもない。
ただ、必要なだけの力と速度だけが乗せられている。
金属と金属がぶつかったはずの瞬間、甲高い衝撃音は生じなかった。
代わりに響いたのは、鈍く嫌な破砕音だった。
ダムドの手にあったはずの巨大な戦鎚が、刃の軌跡に沿って粉々に砕け散っていた。
鉄片と石片が、雨のように地面へと降り注ぐ。
「な――」
ダムドが表情を変えるよりも速く、シモンは返す刀で一歩踏み込んでいた。
袈裟懸けに振り下ろされた一撃が、ダムドの肩口から腰にかけてを斜めに裂く。
血飛沫が夜気に散り、巨躯が大きく後ろへ弾き飛ばされた。
「自己紹介は、さっき聞いたよ」
数歩、後ずさるように足が地面を踏みしめ、やがて支えを失ったようにそのまま仰向けに倒れ込む。
肩から腰にかけて刻まれた傷は深い。
だが、シモンの目には、それが致命傷には至っていないことも見て取れた。
「流石にタフだな」
軽く息を吐き、そう呟きながら、シモンはダムドへ歩み寄る。
刃先をわずかに下げ、そのまま一息でとどめを刺すつもりでいた。
そのとき――。
「まだそいつを死なせるわけにはいかん」
気配は、ほとんどなかった。
気づいたときには、白影がすでに迫っていた。
長布の下から放たれた声は冷たく、しかし奇妙なほど感情の揺れがない。
白影の手には、使い込まれた忍刀が握られていた。
鞘から抜かれたばかりの刃が、月光を受けて一瞬きらりと光る。
その斬撃は、寸分の狂いもなくシモンの急所を狙っていた。
「ちっ――」
シモンは舌打ちしつつも、身体が先に動いていた。
ぎりぎりのところで剣を縦に掲げ、白影の一撃を受け止める。
金属同士が激しくぶつかり合い、火花が散った。
衝撃は想像以上に重い。
力押しではない。
重心と角度、速度、そのすべてを一点に収束させた、練り上げられた斬撃の技だ。
数合、刃を交わしたのち、シモンは一度大きく後方へ跳躍し、間合いを取り直した。
(……やっぱり、こっちが本命か)
気配の消し方も、踏み込みの鋭さも、先ほどまでのダムドとは比較にならない。
何より、こちらの出方を冷静に観察しながら、一撃一撃を最短で急所を狙ってくる。
シモンは、白影を強敵と認め、胸の内で警戒を一段階引き上げた。
剣先が、わずかに下がる。
その動きは無論、降参ではない。
むしろこれから本気で殺し合うための、静かなインターバルだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
豪快に戦鎚を振るうダムドを圧倒し、格の違いを見せつけたシモン。
一方、そんな彼が即座に“強敵”と認めた白影を、皆さまはどう感じましたか?
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