第82話 恐怖の残滓と勇気の一歩
翌朝、灰色の光が倉庫街を包んでいた。
昨夜の熱がすっかり抜け、湿った石畳の隙間から涼しい空気が立ちのぼる。
瓦礫を踏みしめながら、シモンは静かに現場を見渡した。
打ち砕かれた壁、倒れた木箱、割れた瓶。
昨夜の儀式で焚かれた香の煙はすでに消え、残り香すらない。
今はただ、錆と油の匂いだけが一帯を支配している。
現場は厳重に封鎖されていた。
柵と張り紙が張られ、一般人が入れないように見張りが立っている。
巡回する若い隊員が一人、シモンの顔を見つけると眉を上げ、小走りで近寄ってきた。
「シモンさん、おはようございます。隊長は現場で調査の指揮を執っております。こちらからどうぞ」
礼を返す間もなく、隊員は柵を開けて道を作った。顔見知りを通す手際に、現場の緊張感がほんの少しだけ和らぐ。
現場の中心には黒い外套を纏ったロブが見えた。
彼は視線をやや下に落とし、やがてシモンに気づくと歩み寄り、短く言った。
「昨日はお疲れさん。やっぱりお前に依頼して正解だったな」
シモンは現場を一瞥する。散乱した木箱と割れた瓶、地面に散った血の跡。
「そういうお前は、ずっと現場にいたのか?」
ロブはわずかに頷き笑った。笑顔は疲れていたが、それでも穏やかだった。
「まあな。責任者が現場を離れるわけにはいかんだろ」
シモンはゆっくりとロブの顔を見上げた。
伸びた無精ひげ、目の下には寝不足を示す影が濃く落ちている。
休む間もなかったのだろう。
そう察した途端、シモンはわずかに視線を逸らした。
昨日、自分は荒事を終えた後、ロブの厚意に甘えて星交館の高級ベッドで十分な睡眠を取った。
その事実に、何とも言えない申し訳なさを覚えた。
だが、当のロブはシモンの胸中に気づかなかったのか、あるいは気づいたうえで知らないふりをしたのか、何も言わずに視線を横へ流した。
その先にあるのは、ラドン車を改造した箱形の護送車だった。
昨夜捕縛された者たちは、おそらくその中に拘留されているのだろう。
「しかし……本当に生かして捕まえるとはな」
ロブの声に、感心のニュアンスが滲む。
シモンは無造作に肩をすくめ、視線をそちらへ向ける。
「調べるなら生きている方が都合がいいだろう」
ロブは短く頷き、現場の音だけが、二人の間を静かに満たしていた。
「昨夜の突入前の話を覚えているか?」
ロブは少しだけ改まった調子で切り出した。
「こいつら――“フューマー”どもとは、以前にもやり合ったことがある」
その言葉に、ロブの表情が一瞬だけ硬くなった。
「……フューマ―?」
聞き返すロブにシモンは簡単に説明した。
「カルト宗教の教団で”ペイン・アセンダンツ”と言うらしいが、実体はよくわかっていない。呼びづらいし、他の誰が聞いているか分からんから、仮面の集団を“フューマー(香を纏う者)”と昨日名付けた。儀式で変質したあいつは“エクセス・フューマー(過剰香者)”、略してエクセスだ」
「……そうか。……いい、続きを聞かせてくれ」
何故か得意げなシモンに対し、ロブは怪訝な表情を浮かべるが、それよりも話の先が気にるのか、続きを促した。
「五か月前、ワイアース郊外で起きた連続誘拐事件だ。同じようなフューマ―が、子どもを攫っていた」
「……結末は?」
「実行犯たちは壊滅だ。だが黒幕と思われる教団は不明のまま。目的も分からなかった」
言葉の端で、シモンは意図的に“ジュリア”の名を避けた。
ロブは何かに気づいたかもしれないが、深くは追及してこなかった。
「……それを早く言えと言いたいところだが、今聞けてよかった」
「言ったところで、動けなかっただろうに」
二人の間に、乾いた笑いが零れた。
「だが、逆に聞きたい。ワイアースの誘拐について、本当に知らなかったのか?」
「……ああ。少なくとも俺のところまで情報は降りてこなかった」
シモンは思案した。
ロブが知らないということは、“あの方”も知らないということだ。
そうでなければロブに情報を降ろさない理由はない。
ということは、ワイアースの誘拐事件は中央に報告されていないのではないか。
テラノスが他貴族への口止めをしたのは確かだが、中央への報告まで塞げるはずがないし、する理由もない。
――ならば、誰かが意図的に止めた……もしくは、もみ消したか。
誰が、何のために?
考えても答えの出る類ではないが、少なくともそれが可能な“力”を持つ何者かの思惑が働いているのは確かだった。
しばしの沈黙のあと、シモンが倉庫の天窓を見上げる。
「……それと別件だが、半年前に通りすがりの街で、今回の騒動と似た症状を見た」
「場所は?」
「中継都市サルディアだ。ワイアースから南へ下ったあたり……アルメリア港との中間あたりだ」
今度はロブが眉をひそめ、思案のための沈黙が流れた。
「……シモン、すまんがこれから残業は可能か?」
「……残業手当が出るならな」
「融通の利く冒険者は重用しないとな。腕が立つなら猶更だ」
ロブが苦笑する。
その場で彼は指示を出し、現地調査班の先行派遣を決定した。
“報告よりも先に動く”――規則を無視した、現場の独断。
全てが許されるべきではないが、杓子定規に縛られない柔軟な対応だと、当然のように頷いた。
「もう一働きするとしようか」
「香りはまだ消えていない。そういうことだ」
今後の方針を決めたロブは、フューマーの護送手続きやサルディアへの先行調査隊の編成に追われていた。
命令を飛ばし、報告を受け、また次の指示を出す。
その声が絶え間なく飛び交い、現場は慌ただしく動いている。
対してシモンは、この場で特にやることもなかった。
真面目に働いている者たちへ不用意に声をかけるのも気が引ける。
そのため、なんとなく周囲を見回りながら、手持ち無沙汰を紛らわせるように倉庫街を歩いた。
瓦礫の影に取り残された魔導具の残骸。
砕けた木箱。
地面に残る擦過の跡。
それらが、昨夜の戦いの名残を静かに物語っていた。
やがて陽は高く昇り、倉庫の屋根をかすめた光が、むき出しの鉄骨を白く照らし始める。
気づけば時間は正午を過ぎ、先行調査班の出発時刻が近づいていた。
荷を積んだ馬車の脇では、隊員たちが最終確認に追われている。
その中に、包帯を巻いたノーラの姿もあった。
シモンは彼女を見つけると、足を止めた。
「傷の具合はどうだ?」
問いかけに、ノーラは小さく笑って首を振る。
「生命魔法で癒してもらいました。体調も問題ありません」
「そうか。無理はするなよ」
「はい……それより、情けないところをお見せしました」
ノーラは自嘲気味に笑う。
「気絶して、任務を放り出してしまって……恥ずかしいです」
シモンは軽く顎を上げ、彼女の背にある護送車へ視線をやった。
「ここにいるってことは、先行調査班に?」
「はい。昨夜の失態を取り戻したくて、志願しました」
しばしの沈黙。
ふと、シモンは夜の戦いを思い返し、静かに口を開いた。
「……怖かったか?」
ノーラは目を伏せたまま答えなかった。
その沈黙に、否定も肯定もできない迷いが見えた気がした。
かすかに震える唇が、その心の揺れを物語っていた。
シモンは穏やかに続けた。
「死に直面すれば怖い。きっと誰でもそうだと思うし、俺も怖いと思う。そんな経験、今まで何度もあったさ」
ノーラの肩が小さく動く。
「だが――怖いと思っても、それでも前に進もうとする。それが勇気だと思っている」
言葉は静かだったが、確かな力があった。
「恐怖を感じることは、恥じゃない。今の君が恐怖を認めても、それでも一歩先に進もうとしているなら……それは立派な勇気だ」
驚いたように、ノーラは顔を上げた。
「君の勇気で助けられる命がある。そのことを、忘れないでくれ」
ノーラの瞳が、微かに揺れた。
いつもは凛々しい表情を浮かべる彼女の頬が、ほんの少し緩む。
「……ありがとうございます。必ず、やり遂げます」
その目には確かな光が宿っていた。
その時、シモンの背後から柔らかな声が落ちてきた。
「シモン、うちの隊員を口説くのはよしてくれないか」
「そ、そんな、口説かれてなんかありません! ……時間なので、失礼します!」
振り返ると、書類束を抱えたロブが立っていた。
ノーラは顔を真っ赤にしたまま、否定するように両手を振る。
早口でまくし立てると、最後に慌ただしく一礼し、そのまま足早にその場を後にした。
「お前なぁ……」
「天然女たらしは変わらないんだな」
シモンが眉をひそめると、ロブは口の端を上げて笑った。
先行調査隊を乗せた馬車がゆっくりと動き出し、やがて視界の彼方へと消えていく。
その背を見送りながら、シモンは小さく息を吐いた。
昼の陽射しの中に、昨夜の香の残滓が、まだ微かに漂っている気がした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
恐怖を乗り越えようと、一歩を踏み出したノーラ。
シモンの励ましや、最後の「口説いている」ように見えたやり取りをどう思いましたか?
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