第81話 狂気の香と男の本性
入り口から吹き込む風が、瓦解した壁を抜けていく。
香の煙はとうに散り、倉庫の空気は澄んでいる――はずだった。
それでも、奴らを見た瞬間、鼻腔の奥に、嫌な甘さがこびりつくように残った気がした。
理屈ではなく、感覚が告げている。まだ“香”は生きている、と。
変貌した信者は前傾姿勢のまま、肩を震わせ、口角を吊り上げていた。
ニタニタと笑う顔は、もはや人ではない。
皮膚の下を黒く変色した血管が走り、膨張した筋が衣の継ぎ目を裂く。
獣が笑うなら、きっとこんな顔をする――そんな、理不尽な醜さだった。
(嫌な匂いがする奴らだ。さしづめ“フューマー(香を纏う者)”ってところか。……ついでに、あの壊れた奴は“エクセス・フューマー(過剰香者)”、略してエクセスだな)
シモンが心中で名を与えたのとほぼ同時、仮面の一団、フューマーのリーダーが一歩前に出た。
先程までの狼狽が嘘のように、堂々とした態度で喉を震わせて叫ぶ。
「我らの理想を阻む、蒙昧なる輩を――真なる姿で打ち倒せ!」
退路を確保するため、リーダーが裏口へとエクセスをけしかけた。
最低限の命令を理解したエクセスは壁を蹴り、縦横無尽に飛び跳ねる。
獣じみた脚力で床を砕きながら、巨体が一直線に裏口に突進してくる。
その進路を遮るように、ロブの部下、ノーラが槍を構え一歩前へ出た。
「ここは通さないっ」
足を半歩ずらし、冷静に間合いを計る。
槍先はわずかに揺れ、息を整えると、鋭い連撃が走った。
無駄のない動作。
流れるような打突。
人間を相手取るなら、それは教本に載せたいほどの正確さだった。
だが、相手は――もう“人”ではない。
エクセスは笑っていた。
唇を裂けるほどに吊り上げ、目を血走らせたまま、異様な弾力で身をくねらせる。
連撃を掻い潜り、穂先を紙一重でかわすと、懐に滑り込んだ。
エクセスがむんずと槍の柄を掴んだ。
「は、放して……ください!」
ノーラの声が響く。
常識外の存在に、常識的な言葉を投げる――その声は微かに震えており、認めたくない現実に抵抗しているかのようだった。
そして指先が白くなるほど槍を握りしめ、手放さない姿を見て、シモンはほんの僅かに眉を寄せた。
……悪い流れだ。
エクセスの腕が膨張した。
呼応するように、掴んだ槍が悲鳴のような軋む音を立てた。
次の瞬間、ノーラの身体が床を離れた。
エクセスは片手でノーラの槍を振り回している。
常識では考えられぬ膂力だ。
回転が空気を裂くたび、血が引くような風圧が倉庫の隅々まで走った。
ノーラは必死に柄を握り、足をばたつかせる。
だが人外が生み出す遠心力には勝てない。
手が離れる。
重力が戻り、彼女の体が宙を舞った。
次の瞬間、鈍い音が響く。
壁が揺れた。
粉塵がぱらぱらと降り、木片が床を転がる。
目の前に群がる住民と、壁伝いにずるりと落ちるノーラを見て、思わず歯噛みした。
――間に合わなかった。
その冷静な言葉が、頭の奥で硬く鳴った。
ノーラは、衝撃のせいか意識こそ保っているようだったが、身体は細かく痙攣し、起き上がることもできなかった。
倉庫の床を爪で掻きながらも、指先には力が入らない。
その彼女に、エクセスがゆっくりと歩み寄る。
殺意を隠そうともしない歩幅――だが、あえて“ゆっくりと”近づいているように見えた。
獲物の恐怖を確かめるための間合い。
生きたまま弄ぶような、悪意の緩慢さ。
肥大化した手が持ち上がり、ノーラの顔の前で静止する。
指がゆっくりと開閉し、反応を試すように頬を撫でた。
次の瞬間、エクセスはその顔を掴み上げた。
そして――敵にも味方にも見せつけるように、頭上高く掲げた。
ノーラの脚が宙でばたつく。抵抗する力など、もう残っていない。
「は、はな……せ、は……な……」
掠れた声が空気に散る。
エクセスはニヤリと歪んだ笑みを浮かべ、腕の筋が隆起していく。
締め付けている。握力で、ゆっくりと。
「ノーラっ!!」
ロブの怒声が響く。
だが、洗脳された住民たちが壁となり、踏み込むことができない。
「いや……いやぁぁ!!」
ノーラの悲痛な叫びが、倉庫の天井を震わせた。
一拍。
その手足が、糸の切れた人形のように力を失う。
足元に小さな音。
足を伝い滴る液体が、床に小さな水溜まりを作った。
「貴様ぁぁっ!」
裏口を守っていたダリオが、咆哮とともに動いた。
鍔迫り合いをしていたフューマーを拳で吹き飛ばし、振り返りもせずエクセスへと突撃する。
エクセスはその気配を捉え、怒気を孕んだ目で一瞥をくれた。
途端に口端が吊り上がる。――あの、嫌らしい笑み。
次の瞬間、動かなくなったノーラの身体を、そのままダリオへ向けて投げ放った。
「っ――!」
避けることは出来なかった。
ダリオは咄嗟に両腕を広げ、ノーラを受け止めようとしたが、人の身で受けられる衝撃ではない。
空気が弾け、二人まとめて床を転がる。
エクセスはわずかに首を傾け、次の獲物を探すように視線を巡らせた。
倉庫に残った者たちの呼吸が止まる。
「ロブ、住民たちは任せるぞ」
短く言い残し、シモンは一歩踏み出した。
住民たちの間を風のように掻い潜り、エクセスの正面へ躍り出た。
足元の瓦礫を踏む音が、静まり返った空間に冷たく響いた。
ロブはシモンの意図を理解したのか、瞬時に状況を把握して指示を飛ばした。
「“奴”はシモンに任せろ! 住民は俺がやる! 別班は裏口を死守しろ、絶対に逃すな! 他の者は倒れている住民を急いで外へ避難させろ!」
『了解!!』
一斉に返る声。
命令は的確で、部隊の動きに迷いはなかった。
「よし、全員の奮戦を期待する!」
ロブの鼓舞に、部下たちがそれぞれの持ち場へ散っていく。
彼自身も、先ほどよりも荒々しく、洗脳された住民を次々に無力化していった。
シモンも、その意図を読み取る。
――つまり、自分が“時間”を稼ぐ役目だ。
「遊んでやるから、かかってこいよ」
右手に木剣を構え、左手をクイクイと煽るように差し出す。
理性を失ったはずのエクセスが、その挑発を理解したのか、猛然と飛びかかってきた。
(住民の避難が完了するまでは、こいつを暴れさせるわけにはいかない。……ここで止める)
エクセスの猛攻を受け止めながら、シモンは足を止めたまま動く。
その場での体さばき、木剣の受け。
本来の強みであるフットワークを封じたうえで、重心移動と木剣だけで力を流す。
真巽流《巽返し(そんがえし)》。
相手の力を正面から受けず、わずかに角度をずらしながら、流すように受け流す技だ。
打ち合いではなく、力の通り道を見極める感覚。
だが、相手の膂力は常軌を逸していた。
いなしきれず、木剣が軋むたびに腕に痺れが走る。
防ぎ切れなかった拳圧が肩を裂き、頬に血が滲む。
「虫の息の相手だ、早く仕留めろ!」
リーダー格のフューマーが叫ぶ。
シモンは片目を細め、鼻で笑った。
「理性を捨ててこの程度じゃ、割に合わんだろう」
嘲るような声。
次の瞬間、エクセスが突進した――。
だがシモンの背後で、裏口を守っていたロブの部下が倒れ込んでくる。
このままでは、踏み潰される。
シモンは反射的に体を横にずらし、エクセスの軌道を変えた。
完全には躱しきれない。
木剣を斜めに構え、受け止める。
轟音。
衝撃。
次の瞬間、シモンの身体が壁まで吹き飛んだ。
木剣が悲鳴を上げるように砕け、破片が散る。
「シモンっ!!」
ロブの声が飛ぶ。
壁に叩きつけられた衝撃で生まれた痺れを悟られぬよう、シモンは壁に背を預けたまま、背を滑らせて立ち上がった。
突進を受けた瞬間、無理に踏ん張らず、自らも後方へ跳んでいた。
派手に吹き飛んだが、致命的な打撃はない。
「大丈夫だ。……それより、そろそろコイツ、仕留めてもよさそうだな」
不敵に呟き、視線を巡らせる。
倉庫の奥では、最後の住民が避難のため外へ運び出されていた。
邪魔のない“戦場”が整う。
シモンは砕けた木剣の柄を放り、腰の真剣を抜いた。
刃が光を受け、静かに鳴る。
その気配に、エクセスの動きが一瞬止まる。
理性を失っているはずなのに――本能が警鐘を鳴らしているのだろう。
「来ないのか? “出来損ない”」
侮蔑の言葉。
挑発を理解したのか、エクセスが再び唸り声を上げ、突っ込んでくる。
シモンは一歩も退かず、軽やかに右へ、左へと流れる。
先ほどまでの防戦とは違う。
足場を確立し、呼吸の流れが変わっている。
エクセスの拳が掠ることすらできない。
躱すたびに、刃が閃く。
斬撃は一つひとつ浅いが、確実に通っていた。
やがて、エクセスの全身は血に染まり、動きが鈍る。
怒号とともに、業を煮やしたエクセスが吠える。
そして渾身の踏み込み。
人外の腕が振り下ろされる。
だが、シモンは避けようともしなかった。
刹那。
彼の姿が、霧のように掻き消えた。
「真巽流《霞斬》」
気配を断ち、残像を残す。
エクセスの背後に回ったシモンの刃が、静かに閃いた。
膝窩、足首、上腕。
狙いすました刃が腱を断つ。
音すらない。
巨体が膝から崩れ落ちる。
四肢は残るが、もう暴れない。
否――暴れられない。
エクセスは生きたまま、完全に無力化された。
静寂が戻る。
むせ返る血の香りが、倉庫に漂っていた。
シモンは短く息をつくと、背後を振り返った。
大勢は、すでに決していた。
住民たちは全員、倉庫の外へと連れ出され、暴れていたエクセスは生きたまま動けず、ロブの部下によって縛り上げられている。
フューマー達もすべて打ち倒され、裏口も押さえられていた。
残るは――リーダー格の一人だけ。
シモンは剣を下ろしたまま、ゆっくりと歩み寄った。
「情報なら、そこらで寝ている奴らで十分だろう――だったら……一人くらい殺しても、問題ないよな?」
ロブは短く目を細め、シモンの声音の底を読んだ。
「……まぁ、一人くらい構わんさ。死んでもな」
「た、助け――助けてくれ、わたしは、私はただ――!」
フューマーが命乞いを始める。仮面越しでも、動揺が手に取るように分かった。
「自害がしたいなら、待ってやってもいいぞ」
弱まりつつある《ルミノア》の光が、シモンの顔を淡く照らす。
素顔のまま、何の感情も浮かべず、冷淡に告げたその声は、石のように硬かった。
いつまでも命乞いを続けるリーダーに、シモンは視線を落とし、ほんのわずかに肩を傾ける。
「今まで他人に好き勝手やってきた、その報い」
壊れた壁の隙間から、月光が差し込む。
上段――刃が白い。
世界が細くなる。
「――死ね」
音のない一閃。
刃が引かれ、遅れて空気が震えた。
仮面が床に転がり、身体が沈む。
……
…………
「……やったのか?」
察しているかのようなロブの声。
シモンは短く息を吐き、剣を振り血を払う。
「やるわけないだろ」
カチャンと剣を鞘に納めると同時に、転がった仮面が真っ二つに割れる。
命は残され、この夜に一つの区切りが付けられた。
月は何も語らない。
ただあるがままの現実を、柔らかな光が照らしていた。
沈黙の倉庫に、夜風が差し込み、血の香りを空へと飛散させていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
猛威を振るい、ノーラを一蹴したエクセス。
真剣を抜いたシモンは格の違いを見せつけ、エクセスを無力化しました。
最後の処刑フェイントは、シモンらしさとして伝わったでしょうか?
印象に残った場面や台詞があれば、ぜひコメントで教えてください。
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