第80話 狂気の末端
号令と同時に、シモンは香の満ちた倉庫へ踏み込んだ。
一瞬で内部の状況を把握し、右手で腰の愛刀を抜く。
短く息を吐き、意識を一点へ絞る。
「――飛燕・風切」
白閃が走った。
剣先から解き放たれた斬風が、一直線に空間を裂く。
圧縮された気流が壁を貫き、鋭い衝撃音とともにひび割れが奔った。
次いで、鈍い破断音。
衝撃と共に煉瓦が一気に外へ押し出され、文字通り壁に風穴を開けた。
内部に滞留していた甘い香が、空へ吸い込まれ、倉庫の空気がわずかに澄んでいった。
シモンはくるりと愛刀を返し、鞘へ静かに納めると、すぐに木剣を抜き、呼吸をひとつ整えた。
その動きに、無駄も焦りもない。――ただ、次の戦いを見据える瞳だけが、冷たく光を宿していた。
同時にロブが香炉へ一直線。
熱で気化する香油の揺らめきを蓋で押し閉じて、手早く鎖で封緘すると革袋に収納した。
「証拠品だ。預かれ!」
短い声が飛ぶ。
傍らに寄った部下が受け取り、即座に外に持ち出す。
遅れて突入した別班が、腰袋から小型の球体を取り出す。
それは携行型の照明魔導具――普段は手のひら大の光珠として、夜間行動や救助時の灯りに用いられる。
だが、地面や壁へ叩きつけてルミノアを割ると、内部の魔力が一気に解放され、短時間ながら昼光にも匹敵する強烈な明るさを放つ。
「ルミノア!」
合図とともに、光球が次々と投げつけられた。
壁へ、床へ――触れた瞬間に柔らかく破裂し、白光が倉庫の内壁を満たす。
影が光にのみ込まれ、紫煙の残香が鮮やかに浮かび上がった。
光に晒された住民たちは、焦点の合わない目で立ち尽くしていた。
唇は小さく文言をなぞり、揺れる肩。
その外側で、白い仮面の一団だけが慌てふためき、互いの肩を突き合う。
直後、ひとりの仮面が両手を高く掲げ、割れた声を張り上げた。
「安寧を踏みにじる邪なる者が来たぞ! 我らの静けさを、汚す者らを――追い払え、払え、払え!」
声の波が、陶酔の群れに火を投げる。
虚ろな瞳に怒りの色が差し、住民たちがふらつく足取りでこちらへ雪崩れた。
「無力化は俺とシモンでする!お前たちは倒れた住民を捕縛して外へ運べ! 手首だけだ、乱暴にするな!」
怒声に似た命令が、金属のような硬さで空気を断つ。
ロブは剣を抜かず、鞘に納めたまま柄を握り直した。
前へ出てくる男の顎を、下から撫で上げるように一撃。
乾いた音が鳴り、膝が抜ける。
崩れ落ちる身体を片手で受け流し、そのまま背後の部下へ渡す。
続けざまに、次の一人の鳩尾を鞘尻で軽く叩いた。
息が抜け、視界が白む。
倒さず、座らせる角度で押し返す。
シモンは木剣を斜めに構え、刃先を住民たちの眉間へ滑らせた。
触れない――寸前で止める。
殺気だけを、点として打ち込む。
心臓が空を打ったように仰け反り、瞳が瞬きを忘れ、遅れて膝がついた。
倒れかけた肩をそっと支え、そのまま床に転がす。
目で合図すると、ロブの部下が素早く駆け寄り、縄を掛けて出口へと引きずっていく。
「一気に間合いを詰める!」
ロブの声が倉庫に響く。
気迫を込めて叫ぶや、相手を待たず自ら突撃した。
暴徒と化した住民の列へ、鞘を構えて切り込む。
シモンは視界の端で足音を捉え、木剣の腹で迫ってきた住民の手首を弾く。
握っていた棒が転がり落ちる。
続く二人には――飛燕の応用。
見えぬほどの速さで風圧を放ち、遠当ての衝撃が脳を揺さぶり、二人の意識が同時に断たれた。
あっという間に――という言葉が陳腐に響くほど、速かった。
住民の列は次々と倒れ、外へと運び出されていった。
立っている者の数は、瞬く間に減っていった。
計算外だったのは、倒れた住民を縛り、外へ出すよりも、圧倒的に打ち倒すのが早かったことだ。
「後ろ下がるな! 覆われよ、覆われよ!」
指示を出していたリーダー格の仮面の一人が、声を張り上げる。
だが、その叫びはもはや命令ではなく、恐怖の裏返しだった。
住民たちは状況を理解できず、ただ混乱のまま突進している。
下がっているのは、他ならぬ仮面の信者たち自身――それを指摘する者は誰もいなかった。
後方に退こうにも、裏口はすでに別動隊に抑えられている。
逃げ場はなく、退路は完全に絶たれていた。
そのとき、輪の中心にいたリーダー格の信者が、隣の肩を乱暴に抱き寄せた。
腰の小瓶を引き抜くと、ためらいなく栓を歯で噛み切った。
「やめ──」という声が割り込むより早く、仮面を剥がされた隣の信者の口は強引に開かれ、香油の原液が押し込まれた。
喉を通る液の音が、異様に大きく響く。
むせ返る音、喉の痙攣。
周囲の者が事の次第を悟るや、飲まされた信者を押さえつけ、その両足の甲を短剣で深く貫いた。
「ぎゃぁぁぁっ!!」
鋭い叫びが倉庫にこだました。
仲間であっても、他人の痛みには容赦がない。
リーダーは耳元へ顔を寄せ、低く、儀式めいた調子で呪詛を落とした。
「肉を裂け、魂を磨け――! 血を流し、己を超えよ! 痛みこそ救済! 苦悩の先に真なる姿を顕現せよッ!」
その一声が引き金となり、周囲が一斉に応答する。
「顕現せよ!」「顕現せよ!」
群唱がヒステリックに重なり、声の壁が一段と高くなった。
やがて、押さえつけられた当人の口からも、つぶれた節回しが漏れ出す。
「顕現せよ! 顕現せよ!……けん……げ……」
言葉は次第に崩れ、やがて替わりに吐き出されるのは獣じみた荒い呼気だけになった。
痛みに悶えるはずの身体が、いつのまにか項垂れ、異様な脈動が全身を襲う。
皮膚の下で筋が不自然に隆起し、血管が黒く脈打つ。
全身がみるみる膨張し、法衣は悲鳴をあげるように裂けた。
引きちぎられた布片が宙を舞い、露わになったその肉体は、もはや元の体格を留めていない。
だが、その顔に苦悶の影はなかった。
むしろ――どこか恍惚に似た安堵が、濁った瞳の奥で微かに揺れていた。
叫びはうなりへと変わり、刺さった短剣をぶら下げたまま、変貌を遂げた存在は床を蹴る。
震動が倉庫全体を揺らし、咆哮が鉄骨を唸らせた。
それは、苦痛でも絶望でもない。
己の「昇華」を誇示する、歓喜の雄叫びだった。
シモンは思わず息を呑む。
その姿は――かつてジュリアの炎に包まれ、その存在を燃やし尽くした、“人をやめた者”と同じだった。
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ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
再びシモンの前に立ちはだかった、仮面の信者たち。
彼らの狂気と、最後に姿を現した“人をやめた者”をどう思いましたか?
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