第79話 歪む紫煙と切り裂く刃
倉庫街に入ると、通りの灯はほとんどが消えていた。
夜風が錆と油の匂いを運び、積み上げられた木箱の影が、路地の石畳を縫うように伸びている。
案内役のロブの部下が、黒衣の裾を翻して先を行く。
無言のまま、足取りは迷いなく、足音すら闇に吸い込まれる。
ただ、風が吹くたびに――油の残り香と、遠くで軋む鎖の音だけが夜気を震わせた。
息をひとつ吐くたびに、冷気が肺の奥を撫でる。
戦いの直前にしか訪れぬ静寂が、じわりと肌を刺していた。
やがて、通りの最奥に目的の廃倉庫が姿を現した。
外壁は半ば崩れ、錆びた鉄扉が月明かりを受けて鈍く光っている。
だが、その奥からは確かに、微細な魔力の流れが滲み出ていた。
(……ここか)
物陰には、すでにロブが立っていた。
黒の外套に軽鎧を重ね、腰には長剣。
昨日の品の良い紳士然とした姿は跡形もなく、そこにいるのは戦場を知る男――冷徹な指揮官の顔だった。
「よく来たな。予定どおりに突入だ」
低く放たれた声には、一分の隙もない緊張が宿る。
その眼光には、任務に挑む覚悟と、静かな怒りの色があった。
シモンは無言で頷き、腰の訓練用木剣に手を当てる。
掌に伝わる真新しい木の感触に、心のざわめきが染み込んでいくようだった。
ロブの傍らには、六名の部下が控えていた。
男女混成。
いずれも熟練の気配を纏い、身じろぎひとつしない。
誰も言葉を発さず、ただ夜気の中で呼吸を整えていた。
ロブは地図を広げ、指先で倉庫の構造をなぞる。
「外に見張りが四名。裏口は別動隊が塞いでいる。逃げ場はない。俺たちは正面から押し入り、内部へ追い込んで制圧する」
淡々とした声が闇を裂く。
「中の様子は?」
「現在、詳細は不明。……おそらく“香”を焚いて儀式の最中だ。犯行グループの連中は十数名、巻き込まれた住民は七十から八十。――それが現時点での推定だ」
ロブは短く息を吐き、視線を地図に戻した。
シモンの脳裏に、ふとハルカの顔が浮かぶ。
忍びである彼女なら、この状況でも難なく潜り込み、敵の中枢を探り出すだろう。
かつて敵のひしめく礼拝堂に潜入し、気配を悟られず本丸の儀式場まで辿り着いたあの離れ業――これこそ八咫の忍びといった所業だった。
(……こんな時、ハルカがいてくれたら)
胸の奥をかすめた思いを押し込み、シモンは目を細めて廃倉庫を観察した。
風に運ばれてくるのは、錆と香の混じった匂い。
その異様な空気を前に、片目を瞑る。
ロブが短く指示を与えると、部下たちは影のように散開し、外周へと姿を消す。
その動きを視界の端で捉えながら、シモンは静かに呼吸を整えた。
「最初の合図で、俺とお前で見張りを無力化する。いいな?」
ロブの低い声が、夜気を更に重くする。
シモンは無言のまま頷き、逆に脱力する。
彼の意識は研ぎ澄まされ、音も、匂いも、すべての気配が一本の線となって流れ込んでくる。
わずかな足音の揺らぎ、衣擦れ、呼吸の波――そのすべてが敵の位置を描き出していた。
次の瞬間、闇を裂くように青色の発光魔法が打ち上げられた。
合図と同時に、ロブが地を蹴る。
シモンもそれに続き、音を殺して影のように追従する。
虚を突かれた見張りの四人は、反応する間もなく沈む。
鈍い衝撃音が三度、四度――そして静寂が戻った。
ロブの剣筋は無駄が一切なかった。
若き日の力強さと、年を重ねて得た緻密さが同居している。
(……相変わらず見事な腕だ)
シモンは内心で舌を巻いた。
一方でロブも、シモンが倒した見張りを一瞥し、わずかに口角を上げる。
互いに同じことを思ったのだろう。
ロブは腰からロープを取り出し、無言のままシモンへと放った。
それを受け取るや否や、二人は倒れた見張りたちの手を素早く縛り上げる。
作業を終えると、ロブが軽く顎を引き、シモンも同じ動きで応じる。
短く息を整え、二人は物陰から身を乗り出す。
視線の先――倉庫の内部を、無言のまま探った。
倉庫の隙間から、微かな香の匂いが漏れ出していた。
甘く、鉄のような苦みを帯びた――どこか血の記憶を呼び覚ますような香り。
それが、“依存触媒”の気配だと直感する。
薄明りに目を凝らすと、奥でゆらめく人影が見えた。
住民らしき者たちが、陶酔した表情で何かを呟きながら、ゆるやかに身体を揺らしている。
その中心には、白い仮面を被った男が立ち、香炉に炎を落とした。
ぼう、と橙色の火が灯ると、紫煙が立ち昇り、甘い香りが周囲を巡り、やがて天へと昇る。
そのたびに人々の瞳が淡く光り、倉庫の奥は現実とも幻ともつかぬ光景に変わっていった。
(……やはり、あいつらか)
白い仮面を見た瞬間、シモンの脳裏に数か月前の誘拐劇が閃いた。
奴らの目的は依然として掴めていない。
だが、何らかの明確な目的があることだけは間違いない。
情報源としても、ここは絶対に逃せない――。
シモンは息をひとつ吐き、木剣を握る手に、わずかに力が籠る。
紫煙が渦を巻き、薄暗い倉庫の中でゆらゆらと踊る。
灯の届かぬその光景は、まるで現実の皮を剥いだ夢の断片。
理性の輪郭が、静かに歪み始めていた。
「ロブ、奴ら――追い詰められると自害する可能性がある」
シモンは低く声を発した。
ロブの目がわずかに見開かれる。
「……どうしてそんなことを知っている?」
「詳しくは後で話す。今は、この状況に集中しろ」
シモンは答えず、視線を前へ戻した。
ロブは数瞬だけ思案し、そして頷いた。
言葉はもういらなかった。
今やるべきことは互いに理解している――そういう空気が、二人の間に静かに流れた。
風が止む。
遠くで、時計台の鐘の音が、低く響き渡る。
その響きが夜の底を震わせ、すぐに静寂へと沈む。
ロブは剣の柄に手を置き、わずかに腰を落とした。
「――行くぞ」
その一言に、一帯の気配が変わる。
シモンは木剣を構え、息を殺した。
刹那、世界が音を失う。
風も、匂いも、すべてが遠のく。
残るのは、ただ一点――目の前の扉だけ。
ロブの手が振り下ろされる。
「突入!」
乾いた号令が夜を裂いた。
沈黙が弾け、影が一斉に動き出す。
倉庫街の奥で、夜風が裂けた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
再びシモンの目の前に現れた、白い仮面の集団。
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