第77話 作られた空気と仕組まれた再会
風を切る馬蹄の音が、朝霧の残る街道に小さく反響していた。
まだ陽も昇りきらぬ薄明の中、シモンは手綱を握りながら、馬の息づかいに合わせて身を低くした。
吐く息は白く散り、冷えた空気が頬を刺す。
街道の両脇には、間もなく収穫を迎える畑がどこまでも続いている。
湿り気を帯びた土の匂いが鼻をくすぐり、遠くの空には、渡り鳥の群れが北へと向かっていた。
あと一刻もすれば、メルカリアの南門が見えてくるはずだ。
昨日、ワイアースを発ってからというもの、幾度か馬を替えつつ、ほとんど休む間もなく走り続けてきた。
身体の節々は軋みを訴えている。
それでも、手綱を緩めるつもりはなかった。
風を受けながら、シモンはふと、出立の朝を思い出していた。
――テラノス邸
古い石造りの外壁には蔦が這い、朝の光が葉の露を透かしてきらめいていた。
門前の小道には、朝露を踏む足音が微かに響き、庭の方からは使用人たちの声が風に乗って届く。
静かな朝の空気が、屋敷全体をやわらかく包み込んでいた。
応接室の中は、外気とは違う穏やかな温もりに満ちていた。
磨かれた木机に差し込む光が、壁に灯る魔工灯の金色と溶け合い、室内に柔らかな陰影を描く。
テラノスは椅子に腰を下ろし、首に掛けたタオルで額をぬぐうと、にやりと笑った。
傍らにはヴァレリオが控え、無言のまま二人のやり取りを見守っている。
シモンは簡潔に事の次第を説明し、暫くワイアースを離れることを告げた。
もとよりテラノスとはアドバイザー契約の関係にあり、他の依頼を受けることも想定内だ。
それでもこうして筋を通そうとするのは、シモンの性格にほかならない。
「なにやらキナ臭いのう……。シモン、お前さん、女子だけじゃなく厄介ごとにも言い寄られる性分かもしれんのう。……まあ、厄介ごとを吹っ掛けている儂が言えた義理じゃないんじゃがな。ほっほっほ」
テラノスは軽口を叩きながらも、すでに事の本質を見抜いていた。
かつて――いや、今もなお、シモンに厄介ごとを押し付けている自覚があるのだろう。
それを承知のうえで、あえて笑い飛ばしてみせる。
「……放っておけない相手がいてな。……それに」
シモンの言葉に、ヴァレリオの視線がわずかに動いた。
「もしかすれば、貸しを作れるかもしれん。その貸しは、ジュリアのためになる可能性もある」
テラノスは何も言わず、シモンを見つめた。
長い沈黙ののち、シモンが静かに息を吐く。
「今の段階では、仮定の上に仮定を重ねた与太話だ。……期待しないでくれ」
そう言って目を閉じ、両の手のひらを上に向ける。
その仕草を見たテラノスは、ゆっくりと顔を伏せた。
「……そうか。……すまんのう」
掠れた声でそう呟くと、老人は椅子から立ち上がった。
窓の外に目をやれば、空は明るさを増しつつも、雲はまだ晴れていない。
その光が、部屋の中に翳りを落としていた。
シモンはこれ以上、テラノスに余計な負担をかけたくはない――そう感じた。
「俺がいない間、ハルカのこと、よろしくお願いします」
先ほどの軽口とは裏腹に、姿勢を正し、紳士に頭を下げた。
テラノスは髭を撫でながら小さく頷き、ヴァレリオは目礼で応えた。
それを見届けると、シモンは晴れやかな顔で、静かに応接室を後にした。
――あの朝から、まもなく丸一日が経つ。
街道の先、霞の向こうに石造りの門、メルカリアの南門が見えてきた。
シモンは手早く早馬から降り、通行の手続きを済ませた。
メルカリア――交易都市の名にふさわしく、早朝から街は活気に包まれている。
行き交う荷車、呼び込みの声、焼きたてのパンの匂い。
人々の声と足音が重なり合い、街全体がひとつの生命のように脈打っていた。
だが、その喧騒の中に、微かに混じる“歪み”がある。
ほんの一部。
人波の中に、わずか数名だけ、無自覚のまま調子を合わせたような者たちがいた。
笑みの張りついた顔。
緩慢な手の動き。
作り物めいた活気が、全体の流れの中で奇妙に浮いて見える。
普通の通行人なら、気づくこともないだろう。
だが、幾度も修羅場をくぐってきたシモンには、そのわずかな“歪み”が胸の奥にざらりと引っかかった。
無意識のうちに、過去の記憶がよみがえる。
あの時も――賑わいの裏で、何かがほんの少しだけずれていた。
シモンは小さく息を吐き、手綱を引いて歩調を緩めた。
冒険者という生き物の“勘”は、得てしてこうした微かな違いから始まるものだ。
(……この街には、何かある)
ただの思い過ごし――そう言い聞かせるには、無理があった。
否定しきれない違和感を胸の奥に抱えたまま、シモンは早馬の手綱を引き返す。
まずは馬を厩舎へ返し、荷を整えることにした。
今は、目的地である“星交館”へ向かうのが先だ。
星交館――王都やワイアースにも系列を持つ高級宿である。
白亜の壁と銀の装飾が朝光を受け、静かに輝いていた。
通りの喧騒が嘘のように、館の前だけがひどく静かだ。
中へ足を踏み入れると、磨かれた床がわずかに靴音を返す。
ロビーに満ちる魔工灯の光は均一で、白々しいほどに整っている。
受付の女性は笑顔を絶やさず、流れるような動きで鍵を差し出した。
部屋に通され、背後で扉が静かに閉まる。
明るい陽光がカーテン越しに差し込み、白い壁を柔らかく照らしていた。
整えられた寝具と磨かれた調度品。
香油の香りも上品で、心地よい静けさが漂っている。
外の気配を確かめようと、シモンは窓辺へ歩み寄る。
街のざわめきが遠くに霞み、風が静かにカーテンを揺らしていた。
――コン、コン。
控えめだが、妙に響くノック音だった。
シモンは視線を扉へ向け、コートの上からナイフを確かめた。
この宿に来たことを、まだ誰にも知らせていないはずだ。
「…………」
数呼吸分の間が流れ、空気が張りつめる。
やがて――扉越しに、低い声が響いた。
「……久しぶりだな、シモン」
「…………はぁ」
懐かしくも、聞き覚えのある声に、思わず息が漏れた。
出立前に覚えた予感は、どうやら当たりのようだ……残念ながら。
――やはり、そう来たか。
想定していたはずの声。
それなのに、何故この場所で聞くことになるのか。
胸の奥が、わずかにざわついた。
ゆっくりと扉を開くと、そこに立っていたのは、黒の外套を纏った男だった。
――ロバート・ナインハルト。
「久しぶりだな、ロバート」
「ちっ、ちっ、ちっ……」
警戒を解いたシモンに、男は人差し指を立て、楽しげに左右へ振る。
指の動きに合わせて舌打ちを重ね、悪戯めいた笑みを浮かべた。
その様子に、シモンは眉をひそめる。
やがて男は笑みを収め、わずかに姿勢を正した。
「はじめまして、シモン・マックイーン殿。私はエイル王国特別辺境警備隊隊長、ロブ・ローズであります。――以後、お見知りおきを」
「…………はぁ」
呆れを隠そうともしない溜息が、シモンの口から漏れる。
目の前の男が、どれほど白々しい芝居をしているか――わかりきっていた。
ロブ・ローズ。
そう名乗る彼の本当の名を、シモンは知っている。
ロバート・ナインハルト。
二人の視線が交錯する。
この茶番を選んだ以上、相応の事情があるに違いない。
(……さて、どこから聞いてやろうかね)
魔工灯の白光が、二人の顔を淡く照らした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
アルメリアに到着したシモンを待っていた男、ロブとはどんな男か?
シモンに依頼される内容は、どのようなものか?
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