第76話 指名依頼とおいてけぼりの想い
夜明け前のひんやりとした空気が、石畳の隙間に静かに溜まっている早朝、シモンは扉を叩く音で目を覚ました。
控えめながらも、どこか緊急時特有の張り詰めた間合いがある。
寝台から身を起こし、念のために愛剣へちらと視線を送り、外套を羽織って玄関を開けると、そこにはギルド職員が一人、軽く肩で息をしながら立っていた。
「シモンさん、至急ギルドまでお越しください。……緊急の“指名依頼”です」
職員によれば、つい今しがた、北方の中継都市メルカリアから早馬が到着したという。
夜を徹して走る伝馬は、緊急案件であることの何よりの証だった。
メルカリア――エイル王国北側の国境都市フェルナグラスと、東部学術都市ワイアースとを結ぶ交易路の要衝であり、北方物流の心臓部ともいえる商業都市だ。
王都からも一定の距離を置くその地から早馬が飛ぶこと自体、異例の事態と言える。
(メルカリア……特に知り合いがいるわけでもない。いったい何の話だ?)
脳裏を探ってみても、思い当たる節は浮かんでこない。
とはいえ“指名依頼”と聞いては、内容を確かめずに断るわけにはいかない。
シモンは軽く息を吐き支度を整えると、朝靄の残る街路へと踏み出した。
ギルドの建物は、薄明かりの中に白い輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
まだ開館時間前だというのに、すでに灯りがいくつもともされていた。
魔工灯の白光が受付奥の書類を照らし、職員たちが慌ただしく動き回っている。
シモンは顔なじみの受付嬢が開館準備に追われているのを横目に、軽く会釈を返すと、足早に奥へと進んだ。
普段なら一言二言、軽口を交わすところだが、今はそんな余裕もない。
ギルドマスターの執務室へと通される。
応接室の扉を開けると、ダンカンが既に席に着いていた。
大柄な体に似合わず、書類を手にした姿は妙に落ち着いて見える。
「悪いな、朝っぱらから呼び出して」
「この時間に緊急の“指名依頼”、しかも早馬とは……ただ事じゃないな」
シモンが腰を下ろすより先に、ダンカンは革筒を差し出した。
「差出人は“スレイ・ミラー”。聞き覚えは?」
その名を目にした瞬間、シモンの眉がわずかに跳ねた。
(スレイ・ミラー……いや、まさか……)
脳裏にひとつの顔と声がよぎる。
厄介な人物――というより、厄介な“立場”の人物だ。
あの人なら、偽名を使い、緊急の伝馬を飛ばすこともあり得る。
さらにダンカンによれば、メルカリアへの早馬代もすでに差出人側で前払いされているという。
急を要する事情が、その一点からも見て取れた。
(昨日の依頼の件で、ジュリアもハルカも気落ちしていた。正直なところ、今は離れるべきじゃないかもしれない……)
逡巡が胸をかすめる。
しかし、ダンカンが軽く顎で「先に見ろ」と促した。
「中身を見てからでも遅くはないさ」
その声音には、場数を踏んだ男特有の確信があった。
シモンは封を切り、依頼書を静かに広げた。
文面は端的で、無駄がない。
――至急、メルカリアへ赴き、“スレイ・ミラー”の名義で手配済みの「星交館」にて、『ロブ・ローズ』と名乗る人物と接触せよ。詳細は現地にて伝える。早馬を用い、可及的速やかに来られたし。
几帳面な筆致と明確な指示──それは逆に、書き手の意図と事態の重さを際立たせていた。
加えて、高級宿「星交館」があらかじめ手配されているという一点が、事の異例さをさらに際立たせる。
(肝心な中身は一切記されていない……間違いない、あの人か、あるいはその筋の案件だな。となると……はぁ)
小さく息を吐き、依頼書を丁寧に畳む。
「……受ける。午後に出発する。伝馬証と夜間通行証を手配してくれ」
「話が早くて助かる」
ダンカンはいつになく真剣な表情で頷いた。
「こっちでも可能な限りサポートする。しっかり稼いで来てくれ」
「俺の推測が正しければ……これは、ちょっと面倒なヤマになりそうだ」
シモンが眉間に皺を寄せながら言うと、ダンカンはニヤリと口角を上げる。
「そういう依頼ほど、お前は本領を発揮するだろ」
「勘弁してほしいんだがな……」
シモンは依頼書を懐に収め、ゆっくりと立ち上がった。
薄曇りの窓の向こう、街はまだ朝靄の中にある。
そして、その靄の向こうには、厄介ごとが待っているのだろう。
ギルドを後にしたシモンは、朝靄の残る街路を北へと進んだ。
ワイアース北区東側――貴族や大商人、官僚たちの別宅が並ぶ高級住宅区である。
アグス川沿いの散歩道は、まだ人通りもまばらだった。
そんな静けさの中に、ジュリアとハルカの暮らす屋敷、ジュリア邸がある。
正門の私兵に声をかけると、すぐに掃除中だったハルカが姿を現した。
「シモン様……どうされたんですか、こんな朝に」
ほうきを手にしたまま、どこか落ち着かない面持ちだ。
昨日の叱責をまだ引きずっているのだろう。
視線はわずかに伏し目がちで、声にも硬さが残っている。
「少し急ぎの用件でな。ジュリアはいるか?」
シモンの口からジュリアの名が出た瞬間、ハルカの肩がわずかに動いた。
一瞬、返事をためらうような間があったが、すぐに小さく頷いた。
「……はい。お嬢様は、まだお目覚めになったばかりで――」
その言葉の途中で、屋敷の奥から足音が響き、ハルカが小さく息を呑んだ。
寝間着の上にカーディガンを羽織り、腕にコロンを抱いたジュリアが現れる。
「もう、朝からどうしたのよ……って、シモン?」
しっかりとした声。
けれど、視線が合った途端にわずかに逸れた。
昨日のやり取りが、まだ胸の奥に残っているのだろう。
唇を結び、軽く髪を払って姿勢を整える。
その動作には、いつもの気丈さと、どこかぎこちない迷いが同居していた。
彼女の腕の中で、コロンが小さくあくびをした。
まだ夢の名残を引きずっているらしく、ぽふりとジュリアの胸元に頭を預ける。
「悪い、急な話だ。今日から少し出張に出る」
告げられた瞬間、ジュリアの肩がぴくりと動いた。
「出張? なんで急に……!」
わずかに声が上ずる。
次の瞬間には、眉を吊り上げて言い放った。
「――私も行くわ」
抱きしめたコロンが「くぅ」と鳴き、彼女の胸元でもぞもぞと身じろいだ。
シモンは肩をすくめた。
「今回は俺ひとりだ。少し厄介なヤマになるかもしれんが、それほど長くはならないと思う」
ジュリアはため息をつき、唇に指を当てて小さく考え込む。
そして顔を上げ、わずかに眉を寄せた。
「……ねえ、やっぱり私も行く。いいでしょ?」
即答はなかった。
シモンは目を伏せ、わずかに首を横に振る。
その仕草だけで、ジュリアには十分だった。
しばし沈黙が流れ、やがて彼女はむっとした表情のまま、視線を逸らす。
「……ふん。勝手にすれば。でも、ちゃんと帰ってきなさいよ」
「もちろんだ」
穏やかに笑って返すシモンに、ジュリアは何も言い返さず、腕の中のコロンをぎゅっと抱きしめた。
傍らで控えていたハルカが、一歩進み出て深く頭を下げた。
その動きが、どこか硬い。言葉を探しているような間があった。
「……お気をつけてください、シモン様」
わずかに震えた声。
何か言いかけて飲み込んだ気配があったが、シモンはあえて聞き返さなかった。
葛藤を胸の奥に押し込めた結果の一言だと、受け取った。
「ああ。ハルカもな」
短くそう返すと、彼女は静かに頭を下げ直した。
その仕草の奥に、まだ消えない迷いの影が見えた気がしたが――今は、言葉にしない方がいい。
シモンは視線をジュリアに抱かれているコロンに移し、そっとその頭を撫でた。
小さな獣は「きゅ」と短く鳴き、再びジュリアの胸元に顔を埋める。
「二人を頼んだぞ」
その言葉に、コロンは半分眠ったまま、かすかに尻尾を動かした。
シモンは軽く手を挙げ、門へと向かう。
中庭の魔工灯が朝の光を受けて、屋敷の壁を淡く照らしていた。
背後で二人の気配が消えたころ、シモンは小さく息を吐く。
(……逆にいい機会かもしれんな)
昨日の言葉が、二人の胸にどう響いたのか。
今のままではいけないことは、きっと分かっている。
だが、分かったうえでどんな答えを出すのか――それこそが成長だ。
たとえ答えを出せなくとも、答えを探してもがき、苦しむこと自体に意味があると信じている。
依頼が厄介なことに変わりはない。
それでも――帰ってきたとき、少しでもあの二人の顔つきが変わっていたらと思うと、不思議と気分が軽くなった。
朝の光がゆっくりと街路に差し込み、靄の向こうで鐘の音が鳴った。
シモンはその音を背に受けながら、歩みを少しだけ速めた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
新たな依頼に赴くシモンと残された二人。
シモンを待ち受ける事件に、是非ご期待を!
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