閑話 心奥の影 ―CLOUDY HEART―
夜更け、屋敷の明かりがひとつ、またひとつと落ちていく頃。
私はいつも通り、最後の掃除と点検を終え、静まり返った廊下を歩いていた。
脱衣所でメイド服を脱ぎ、丁寧にハンガーにかける。
下着に手をかけたところで、ふと立ち止まり、姿見の前に身を移した。
鏡の中には、小柄ながらも起伏のはっきりした、自分の身体が映っている。
今日の戦闘でも身体を強く打ち付けたので少し心配だったが、目立った傷はなく、綺麗なままであることに安堵した。
浴場の扉を開けると、湿った空気と共に、湯気がふわりと押し寄せてきた。
壁の魔工灯が水面に揺らぎを落とし、淡い光が床をまだらに照らしている。
誰もいない空間に、ぽちゃん、と一滴の湯がはねる音だけが響いた。
湯船に身体を沈めると、じわりと温かさが肌を包み込む。
けれど、心の奥に残った重苦しさまでは、どうしても溶かせなかった。
湯の中で膝を抱え、ぼんやりと天井を見上げた。
湯気がゆらゆらと立ちのぼり、魔工灯の光を柔らかく揺らしている。
その揺らぎを見つめているうちに、自然と耳の奥に、あの声が蘇ってきた。
――「今回のハルカは敵を仕留めることに執着しすぎだ」
低く淡々としたシモン様の声音。
叱責というより、冷静な指摘。
なのに、胸の奥に突き刺さる痛みは鋭く、湯の温もりではとても癒やせなかった。
あのとき、私は……確かに、退くべき場面で退かなかった。
相手の懐に潜り込んで注意を引き付ける――そこまでは、いつも通りだった。
だが、次の瞬間、私は留まった。
あの間合いに、あのまま。
――「懐から離れたら、ジュリアにトドメを持っていかれるとでも思ったか?」
胸の奥に見えない塊があるみたいに、重く息苦しかった。
その通りだった。あの瞬間、私は「功」を欲した。
誰よりも先に敵を仕留め、自分の力を、自分の価値を示したかった。……ジュリア様に、負けたくなかった。
湯の中で顔を覆う。指先に伝わる自分の体温が、情けなさでさらに熱を帯びた。
シモン様は、そんな私の心の奥底まで見抜いていたのだ。
――「トドメを刺すだけが功績じゃない。敵の懐で注意を引き付け、体勢を崩すのも立派な仕事だ」
私は、その役割を放棄した。
功を焦るあまり、自分の強み――冷静な判断と素早い身のこなし――を、置き去りにしたのだ。
シモン様が認めてくれた“私”を、自分自身で踏みにじってしまった。
一度湯船から立ち上がり、小窓を開け、縁に腰を下ろす。
夜気が肌を撫で、火照った身体にひやりとした感覚が走った。
静まり返った浴場に、自分の呼吸音だけが響く。
――「あのままだったら、ジュリア……お前は死んでいた」
その言葉を思い出した瞬間、心臓が強く跳ねた。胸に手を当てても早鐘のような鼓動は収まってくれない。
私の判断ひとつで、仮とは言え主君であるジュリア様を死なせていたかもしれない。
あの時、自分は戦いの最中に、情けなくも意識を手放していた。
主君を危険にさらし、自分はのうのうと気絶しているなんて、情けなくて眩暈がした。
その事実が、改めて全身を貫いた。
そして、続いた一言――。
――「今のお前たちに、俺は背中を預けられない」
胸に当てた手が、力のない拳を作る。
……私は、信頼を失ったのだ。
シモン様が、私たちに向けていたあの真っ直ぐな眼差しを、自分の未熟さで曇らせてしまった。
視界がじわりと滲んだ。
ぽたりと落ちた雫が、座っている自分の膝元に落ちた。
誰もいない空間に、弱々しい嗚咽だけがやけに響いた。
悔しい。
情けない。
明日、どんな顔をして二人と向き合えばいいのか、考えるだけで息が詰まる。
小窓からの月を仰ぎ、問いかけずにはいられなかった。
(お姉ちゃん……私どうすればいいの。情けなさ過ぎて、消えちゃいたいよ……)
湯気の中、ひとり取り残された私は、小さく震える肩を抱きしめた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
タイトルはBOΦWYの「CLOUDY HEART」から。
今回は閑話でおなじみのお風呂回です。
ハルカはしっかりものですが、年相応の弱さを持ち、抱え込んでしまうのが心配です。
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