第72話 実りの秋
早朝の澄んだ空気が、アーデルシア家本宅の訓練場に満ちていた。
石造りの壁際に背を預け、シモンは腕を組んで二人の訓練を静かに見守っていた。
ジュリアはミーナの投げる標的を、正確な魔法で次々と撃ち落としていく。
空中に放たれた木製の円盤を、詠唱を最小限に抑えた炎矢で寸分違わず撃ち抜き、近距離に投げ込まれた標的には右手の鞭を閃かせて叩き落とし、即座に後退して間合いを取る。
魔力の制御、判断の速さ、動作の無駄のなさ――春先の彼女からは想像できないほど、洗練された立ち回りだった。
「ミーナ、今度は投げるタイミングを言わなくていいわ。数も位置も全部ランダムで」
「は、はい〜……!」
ジュリアの気迫に押されるように、ミーナが慌てて声を絞り出す。
それでもジュリアは一切視線を逸らさず、目前に現れるであろう標的に全神経を集中させていた。右手に構えた鞭も、左手に集めた魔力も、わずかな緩みすら見せない。
一方のハルカは、防護魔法で補強された木製の訓練人形と対峙し、わずかに腰を落として呼吸を整える。
次の瞬間、地を蹴った。相手の反撃を想定した緩急のある踏み込みで間合いを詰め、懐に飛び込むと同時に、突きの三連撃を矢継ぎ早に叩き込む。
最後の一撃と前蹴りを重ね、反動を利用して後方宙返り――その軌道の最中、両腿のガーターリングから苦無を素早く引き抜く。
ふわりとスカートの裾が翻り、着地と同時に流れるような動作で構えを取ると、二本の刃を標的の足元へと正確に投げ放った。
鋭い音を立てて地面に突き刺さった苦無は、明確な牽制意図をもって標的の動線を封じる。
間を置かず、彼女は右へ、左へと細かなフェイントを挟み、低い姿勢で一気に再接近する。
鋭く忍刀を抜き放ち、躊躇なく胸部へ寸止めの一撃が正確に叩き込まれた。
そのまま標的から一瞬たりとも目を離さず、忍刀の切っ先を向けたまま、軽やかにバックステップで距離を戻す。
静かな気迫と、一撃離脱を軸とした洗練された立ち回り――彼女の体に刻まれた鍛錬の深さが、そこに如実に表れていた。
シモンは無言のまま二人の動きを目で追い、淡々と評価を下していった。
(……集中しているな。動き自体は悪くない。ジュリアは魔法の精度が格段に上がっているし、ハルカも間合いの詰め方が鋭い)
だが、すぐに別の視点が頭をもたげる。
(――ただし、周囲への意識が欠けている。互いに個人の課題に没頭しすぎて、視野が狭くなっているな)
二人の集中力は頼もしい。
しかし、実戦ではそれが隙となる。
シモンはしばし思案し、静かに結論を下した。
(まあいい。あとは俺自身で確かめるとしよう)
シモンは壁から背を離すと、ゆっくりと訓練場の中央へ歩み出た。
足音に気づいたハルカが、すぐに動きを止めて姿勢を正す。
ジュリアも標的への集中を解き、訓練の手を止めた。
「――ハルカ、次は俺とやろう」
一歩前に出たシモンは訓練用の木剣を腰に差した。
声は低く落ち着いていたが、そこに漂う空気は先ほどまでとは明らかに違っていた。
張り詰めた空気に、ハルカの表情が一瞬で引き締まる。
「師匠……はい、よろしくお願いします」
ハルカは目を閉じ、一つ深呼吸をする。
ゆっくりと目を開くと、黒髪が湿った風に揺れ、静かな闘志を宿した瞳が露わになった。
対するシモンは正面に立ち、自然体の構え。だが、その何気ない佇まいには、一切の隙がなかった。
「来いっ!」
「はいっ!」
シモンの号令に、ハルカが短く応答する。
僅かに前傾したハルカは、前後左右に小刻みに身体を揺らし始めた。対するシモンは微動だにせず、まっすぐにハルカの眼を見据える。
揺らぎの見えない構えに、ハルカは右回りに細かく動き始める。ときおり左へ切り返し、前後の動きも織り交ぜながら、少しずつ間合いを詰めていく。
そして懐まであと一歩――その瞬間、ハルカはさらに低く身を沈め、一気に踏み込んだ。左右のフェイントを挟みながら、腹部めがけて突きを繰り出す。
シモンは間合いを読み切っていた。
半歩下がり、突きを空振りさせる。
しかしそれもハルカの想定内。
突きの引き際にシモンの死角へ潜り込もうと、左回りに位置を変え続け、意を決して大きく飛び込むと、顔面への突き連打を畳みかけた。
シモンは落ち着いて身体を半身にし、首を傾げて突きを躱す。
その瞬間――ハルカの姿がふっと消えた。
身を屈め、両手を地面についたハルカが、水面蹴りを鋭く放つ。
シモンは冷静にバックステップでそれを回避。
だが、それもハルカの計算のうちだった。
着地の隙を狙い、ハルカは低い姿勢のまま顔面めがけて二本の苦無を投げ放つ。
体勢の整わないシモンは、身をのけ反らせながらギリギリでそれをやり過ごした。
ハルカはさらに左へステップを刻み、一気にシモンの側面へ踏み込む。
忍刀を模した木剣を抜き放ち、横薙ぎにシモンの腹部へと打ち込む――その瞬間だった。
打ち込みの瞬間を見切っていたシモンは、逆にその刹那へ踏み込んだ。
ハルカの横薙ぎを紙一重でかわし、抜き放った木剣を側頭部へ――寸止め。
ピタリと止まった一撃に、ハルカの身体がわずかに硬直する。
張り詰めた空気のなか、柔らかな風がハルカの前髪だけを揺らした。
「……参りました」
弾む呼吸を抑え込みながら、ハルカは静かに降参を口にした。
シモンは木剣を腰に差し戻し、わずかに笑みを浮かべる。
「良い動きだった。本命までを逆算して、フェイントを織り交ぜた展開は悪くない。特に――水面蹴りには驚いた。ああいう上下のコンビネーションは有効だ」
「はい!」
寸評に対するハルカの返事は、疲労の中にも嬉しさがにじんでいた。
しかし、シモンの声音が少しだけ引き締まる。
「……ただ、最後の動きは少し焦りすぎだな。お前は決めに掛かるとき、どうしても動きが直線的になる。その癖は早めに直した方がいい」
「……はい」
ハルカは真剣な眼差しでシモンの言葉を受け止め、唇を噛んで俯いた。
シモンはそんな彼女の肩を、ぽんっと軽く叩く。
「そう落ち込むな。全体的な動きは良かった。今後はもっと余裕を持って、攻め方のバリエーションを増やしていけばいい」
「はいっ! ありがとうございました!」
真っ直ぐな礼に、シモンは満足げに頷くと、今度はジュリアの方へと視線を向けた。
――訓練場の少し離れた場所で、ジュリアが一人、黙々と鞭を振るっているのが目に入る。
木製の標的が等間隔で並べられ、それらが次々と正確に打ち抜かれていく。
右手の鞭で近距離を、左手の魔法で中距離を――一瞬の迷いもなく、標的を連続して撃ち抜くその姿には、張り詰めた集中と研ぎ澄まされた緊張が宿っていた。
(……久しぶりに、確かめるとするか)
シモンの口元に、愉快そうな、そして少し意地の悪い笑みが浮かぶ。
木剣を肩に担ぎ、ゆっくりと歩み寄ると、ジュリアの背後で立ち止まる。
「――よう、ジュリア」
「はぁ……はぁ……何?」
呼びかけられたジュリアは荒い息をつきながら、視線をこちらに向けた。陽光を受けて揺れるプラチナブロンドの髪が、集中の熱を帯びた表情を際立たせる。
(さて……どう出る?)
「久しぶりに、“遊ばない”か?」
シモンは木剣を肩に軽く打ちつけながら、からかうような声音で言った。
“遊び”――その一言に、ジュリアの眉がわずかに動いた。
以前の手合わせが遊び扱いされたのが引っかかったのだろう。
一瞬だけ目を細め、厳しい表情を浮かべる。
だが、次の瞬間には小さく息を吸い込み、呼気とともに余計な感情を押し流した。
かつての彼女なら即座に噛みついたものだが、今は違う。
ジュリアは不敵な笑みを浮かべ応える。
「いいわ。やりましょう」
(……ほう。挑発に乗らないか。いい傾向だ)
ジュリアの成長を確かに感じ取りながら、シモンも口の端をわずかに上げた。
両者は一定の距離を置いて向かい合った。
静かな空気の中、ジュリアが一歩踏み出す。瞬間、両手に魔力が収束し、鋭い詠唱とともに炎矢が次々と放たれた。
「ファイア・ボルト《単体炎矢魔法》!」
連続で放たれた炎矢が、矢継ぎ早にシモンへと殺到する。
シモンは微動だにせず、次の瞬間には右へ左へと細かなステップを刻み、炎矢を寸前で躱していった。軽やかな動きはまるで、流れる風そのものだった。
(……悪くない)
ジュリアは攻撃を止めない。走りながら角度や間合いを変え、シモンが避けにくい位置を的確に探ってくる。春先には考えられなかった“狙い”と“詰め方”だった。
だが――連射の間に、ほんのわずかな隙が生まれる。
(……今だ!)
シモンは一歩踏み込み、飛来する炎矢を木剣で弾き飛ばした。
爆ぜる火花の中、そのまま間合いを一気に詰める。
ジュリアはすぐさま右手での魔法を中止し、腰の鞭を引き抜いて鋭く閃かせた。
空気を裂く音が訓練場に鋭く響いた。
シモンは体を捻ってそれを紙一重で避け、ジュリアも間髪入れず後方へと跳び退って距離を取る。
「……ははっ」
思わず笑みが漏れる。
確かに成長している――勢い任せではなく、きちんと距離と間合いを考えている。
その姿に、ほんの少し嬉しさが滲んだ。
ジュリアは気を取り直し、さらに魔力を高めて両手を構えた。炎矢の雨が、先ほどよりも激しく撃ち込まれていく。
シモンは軽やかに動きながら、それを避け続ける……が、不意に片膝をつき、地面に手をついた。
(ここだ)
その指先が、訓練場の地面に落ちていた小石をつまむ。
ジュリアからは死角になる角度で、シモンはあえて背を向けたまま――石を投げた。
高く弧を描いた石は、見事な精度でジュリアの額へと命中する。
「っ――!?」
一瞬、何が起きたのか理解できず、ジュリアの動きが止まる。
その刹那、シモンは死角から音もなく間合いを詰め、懐に潜り込み――木剣の切っ先をジュリアの喉元へ寸止めした。
「一本……だな」
軽い口調だったが、その声音には確かな技の差が滲んでいた。
ジュリアはきつく目を瞑ると、絞り出すように声を出した。
「……参りました」
悔しそうな表情を浮かべながらも、きちんと現状を受け入れるその潔さは、ジュリアの美点だった。
「魔法そのものは置いておくとして、連射の角度や位置を変える工夫は見事だ。おかげで避けるのに少し手こずったぞ」
「でも……当たらなかった」
口を尖らせ、不満げに呟くジュリアに、シモンは苦笑を浮かべる。
「簡単に当たったら修行にならんさ。それに、お前は難しい挑戦の方が好きだろ?」
軽口に、ジュリアはそっぽを向いて黙り込んだ。
「お前の長所は、その負けず嫌いな性格からくる、一途な集中力だ。だが――集中しすぎれば、視野が狭くなる。……くれぐれもム……熱くなりすぎるなよ」
危うく「ムキになるな」と口走りかけ、シモンは慌てて言葉を選び直した。こういうところがジュリアの繊細なところであり、扱いの難しいところもある。
ジュリアは真剣な表情で小さく頷いた。
「それと、鞭の使い方は良かったな。魔法からの切り替えも早いし、即座に距離を取る判断も上出来だ。あとは場数を踏んで、いろんな状況に対応できるようになれば――ぐっと化けるぞ」
「……わかったわ」
シモンの言葉を聞いたジュリアの表情が、わずかに緩んだ。
だが、すぐにはっとしたように目を閉じ、口元を引き締め、感情を押し隠そうとしているようだった。
その反応にシモンは思わず小さく笑みを漏らした。
ジュリアとの手合わせを終え、シモンは木剣を腰に差し戻し、大きく一つ息を吐いた。
充実感と、わずかな高揚が胸の内に残っている。
二人の成長を、身をもって確かめられたという実感があった。
「――ハルカ、こっちに」
少し離れた場所で修行を続けていたハルカを手招きする。
すぐに駆け寄ってきた彼女の顔には、珠のような汗が浮かび、僅かに息を弾ませていた。
「今日の修行は、ここまでだ」
短く区切りを告げると、ジュリアもハルカも素直に頷き、その瞳はどちらも真っ直ぐに輝いている。
(……よし。いい顔になってきた)
二人の成長を目の当たりにして、シモンは小さく満足げに笑みを漏らした。
「明日は、新しい依頼を受ける。久々の実戦だ」
告げた瞬間、ジュリアとハルカの表情が一気に引き締まる。
「だから今日は――しっかり身体を休めとけ。いいな?」
「はいっ!」
二人の元気な声が訓練場に響いた。
夕刻に差しかかる空の下、程よい疲労感と充実した空気が、三人の間に心地よく流れていた。
それぞれの胸に今日の修行で得た感触を刻み込むように、しばし無言で空を仰ぐ。
シモンもまた、二人の姿を見つめながら、確かな手応えを感じていた。
(……さて、明日は何を見せてもらえるかな)
茜色に染まりゆく空の下、三人の胸には、それぞれが抱く小さな高揚と、明日への静かな期待が確かに芽吹いていた。
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