第66話 愛しさと弱さと図々しさ
一同が木陰で休憩を取っていると、涼やかな風が草むらを揺らした。
そこへ、愛らしい闖入者が息を切らせて現れる。
ぜえぜえと肩で息をしていたルッコは、我が物顔でジュリアの膝に陣取り、そのまま腹ばいになって体を休めると、やがて小さな体をずり寄せるようにして丸まり込んだ。
ジュリアは少し驚きつつも、そっと掌に水を溜めて差し出した。
ルッコは小さな顔ごと水面に押しつけ、ぴちゃぴちゃと夢中で舌を伸ばした。
額や頬を濡らすのも構わず、ただ一心に飲み続ける。
その健気な必死さが、いっそう愛おしく映る。
やがて飲み干すと、満ち足りたように小さく一息つき、小さな体に似合わぬ図々しさでジュリアの膝に仰向けに転がり、短い手足をだらりと伸ばした。
「ねぇ、シモン……この子、飼うことってできない?」
ジュリアは思わず身を乗り出し、真剣な眼差しを向けた。
シモンは肩をすくめ、曖昧に答えた。
「できなくはない」
実際、愛玩魔獣として飼うことは制度上認められている。
冒険者ギルドや都市の自治課に届けを出せば、ルッコのような温和な魔獣は飼育可能だ。
実際に飼われている例も少なくはない。
ジュリアはぱっと目を輝かせ、声を弾ませた。
「じゃあ、この子、私が世話する!」
膝の上で丸まったルッコは、小さな鼻を鳴らし、安心したように「きゅっ」と鳴いた。
その仕草にジュリアの笑みはさらに深まる。
シモンはしばし黙って見つめた。
脳裏に、かつての光景がよぎる。
――血に塗れながら魔血を覚醒させ、敵を圧倒した末にその場へ崩れ落ちたジュリアの姿。
自分が目にしたのは、あの極限の瞬間だけだった。
だが後に本人の口から聞いた話では、小さなルミアを必死に庇い、理不尽に抗う怒りが引き金となったのだという。
(……ルッコを飼うことは、あの時と同じく“誰かを守る感情”を育てるかもしれん。魔血の制御に繋がる……いや、そうあってほしい)
ほんの一瞬の逡巡ののち、シモンは口を開いた。
「――いいんじゃないか」
その言葉に、ジュリアは驚いたように目を丸くする。
「ただし、帰ったら爺さんには自分で言うんだぞ。俺は口添えしてやらんからな」
「う……わ、分かってるわよ」
シモンが軽口めかして付け足すと、ジュリアは唇を尖らせる。
照れ隠しに視線を逸らしたが、頬にはうっすら赤みが差していた。
ジュリアに抱かれたルッコは、まるで自分は無関係とばかりに、のんきに尻尾をふりふりと揺らしていた。
「まずは名前を決めましょ! 名前がなかったら可哀そうよ!」
ジュリアが胸を張り、勢いよく宣言する。
「ふふふ……実はね、こういう時のために、とっておきの名前を考えてあったのよ!」
得意げに前髪を払う仕草に、シモンもハルカも無言で注目する。
ルッコですら、きょとんと見上げて耳をぴくりと動かした。
「その名も――焔尾の夜叉!」
「……赤くないです。白っぽいです」
即座にハルカが冷静に突っ込む。
「なら――紅蓮跳翔姫!」
「だから赤くないって。それに個体名と言うより種族名だな」
今度はシモンが淡々と返す。
「なっ……! 響きは最高でしょ!」
ジュリアはむっと眉を吊り上げ、抗議の声を張り上げた。
「名付けは重要なのよ!」
胸を張るジュリアに、ハルカが小さく息をつき、恐る恐る口を開いた。
「僭越ながら……その……私からも、ひとつよろしいですか?」
「ええ、上等じゃない! 望むところよ!」
ジュリアが勢い込んでうなずく。
「――“つぶ” なんてどうでしょうか。白くて……お米みたいですし」
ハルカが小声で告げると、ルッコが首を傾げ、耳をぴこぴこと動かした。
「つぶ!? 八咫のおにぎりじゃあるまいし!」
ジュリアが両手を振って即座に却下する。
「全然可愛くないわ! 名前っていうのはもっとこう、響きが華やかで、存在感のある、その……そうよね、シモン!」
ハルカの案に、正直それはないだろうとシモンも思った。
だが真剣なハルカの案を頭ごなしに否定するのも気が引け、無言でやり過ごそうとしたところで、ジュリアがずけずけと意見を求めてくる。
「…………ほら、コイツ自身がピンと来てないみたいだぞ」
シモンはつぶらな瞳を細めているルッコへと視線を振り、巧みに話を逸らした。
ルッコの様子を見たハルカは小さく肩を落とし、次の案を思案し始める。
その後もジュリアとハルカの命名合戦は続いた。
「炎光の跳躍兎!」
「……ウサギじゃありません」
にべもなく切り捨てるハルカ。
「“もち”はどうでしょう……?」
「食べ物から離れなさい!」
勢いよく否定するジュリア。
だが、どんなに案を出しても、肝心のルッコは反応を示さなかった。
名前を呼ばれても首を傾げるばかりで、耳も尻尾も動かない。
しまいには眠たげにあくびをしている始末だった。
「……はぁ、いい加減出発したいんだがな」
シモンが頭を掻いていると、ジュリアが急に振り返る。
「じゃあアンタが考えなさいよ、シモン!」
「は? 俺が?」
唐突にお鉢を回され、シモンは思わず言葉を詰まらせた。
視線を落とすと、ルッコと目が合う。
期待に満ちたつぶらな瞳にじっと見つめられ、シモンは観念するように小さく息を吐いた。
(……仕方ない。こいつの外見的な特徴から考えるか)
丸っこい卵型の体。
クリーム色の毛並みに、悪戯っ子めいたこげ茶のアイマスク模様。
ぴょんと跳ねれば、ころんと転がる不器用さ――。
しばし思案ののち、ぽつりと口にした。
「……“コロン” でどうだ」
ジュリアはわざとらしく失笑し、大げさに溜め息をついた。
「安直すぎるでしょ……おじさんのペットじゃないんだから」
ハルカもまた、言葉こそ飲み込んだものの、目を逸らして微妙な表情を浮かべる。
だが、当のルッコは目をぱちりと瞬かせると、耳をピンと伸ばした。
シモンは苦笑を浮かべつつ、唯一の当事者に視線を向けた。
「……どうだ、コロン」
その瞬間、ルッコはぴょんぴょんと跳ねながら尻尾をぶんぶん振った。明らかに喜んでいる。
ジュリアやハルカの案では見せなかった反応だ。
「……そんな……嘘よ。何かの間違いだわ」
ジュリアはショックを受けたように肩を落とし、呆然と跳ね回る小さな姿を見つめるしかなかった。
ジュリアはその後も、自分の考えた名前で呼びかけ続けた。
だがコロンは、まるで他人事のように耳をぴくりと動かすだけで、反応を示さない。
しびれを切らしたように「……コロン」と呼びかけると、今度はぴょんぴょんと跳ねながら尻尾を振り、嬉しさを全身で表した。
「はぁ……当人が喜んでるなら、仕方ないわね」
ジュリアは渋々と認めるしかなかった。
「よし、名前も決まったことだし、そろそろ出発するか」
シモンが声をかけ、一同は後片付けを済ませて立ち上がる。
その時、コロンが小さな体で助走をつけると、渾身のジャンプでシモンの上着のポケットに飛び込んだ。
すっぽりと収まり、丸くなったかと思えば、安心しきったように目を細めて眠りに落ちる。
シモンは小さく微笑むと、コロンの入ったポケット軽くぽんぽんと叩いた。
後ろからついていくジュリアは、不満げに小声でつぶやいた。
「……やっぱり、私の名前のほうが絶対かっこいいのに」
「ん? 何か言ったか」
シモンが振り返ると、ジュリアは顔を赤らめて慌てて言い返した。
「な、何でもないわよ!」
そうして一行は再び歩みを進める。
安らぎのひとときは過ぎ去り、目指す採取地はすぐそこに迫っていた。
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