第65話 自然の掟と小さな命
昼になり、太陽が真上へと差し掛かっていた。
晩夏とはいえ、この時間帯の陽射しは強く、草原を歩く三人の額にも汗が滲む。
草原の奥へ進む途中、ゴブリンやコボルトとの小競り合いを繰り返すうちに、ジュリアの肩にまとわりついていた緊張は少しずつ解けていった。
最初は手が震えていた魔法の詠唱も、今では呼吸に合わせて自然に力を込められる。
戦いながら、彼女は自分でも気づかぬうちに笑みを浮かべていた。
そんなジュリア以上に、シモンが目を見張ったのはハルカの戦いぶりだった。
集団で襲い掛かるコボルトとの戦いでは、距離を保ったまま前衛に立ち、複数を相手取りながらも決して背後を取らせないよう細かく位置を変え続ける。
近接武器を持つゴブリン相手には、あえて間合いを詰め、攻撃をいなしながらジュリアが魔法を放つ時間を稼ぎ、放った魔法が届く直前には邪魔にならぬようするりと間を外す。
修行で鍛え上げた身体能力の高さは知っていたが、こうした状況判断と間合いのセンスは、実戦でなければ見えてこないものだった。
(……本当に、よく鍛えられている)
シモンは胸の内でそう呟き、頼もしさを覚えた。
その時、シモンの思考を遮るように、どこからかモンスターの気配が差し込まれた。
草原の空に、鋭い羽音が走った。
シモンはいちはやく顔を上げる。大きな鳥影が太陽をかすめ、一直線に急降下してきていた。
スワンプホーク――湿地帯や草原に生息する大型の猛禽。
鋼鉄にも匹敵する爪で獲物を切り裂く危険な魔獣だ。
しかし、その爪が狙う先は自分たちではない。
目を凝らしたシモンは、草むらの間をぴょんぴょんと跳ね回る小さな影に気づいた。
それは手のひら二つぶんほどの丸い体に、ふさふさとした長い耳と短い尾を備えた小型魔獣――ルッコ。
本来は人懐っこく、愛玩用として飼われることもある温和で希少な魔獣で、姿を見かけることすら珍しい存在だ。
あまりに弱く、気配が希薄なせいで、シモンですら今の今まで気づけなかったほどである。
およそ戦場には似つかわしくない丸い体を、大きく揺らしながら必死に跳ね、迫る猛禽から逃れようともがいていた。
短い足をばたつかせる様は愛らしさよりも切迫感が勝ち、見ているだけでこちらの焦燥を掻き立てられるようだった。
「待って! あれ、助けなきゃ!」
ジュリアの叫びが風に溶ける。
シモンはその声を吟味するように短く瞼を伏せた。
愛らしい仕草に庇護欲をそそられる。
人の子よりも弱く、到底“魔獣”という言葉が憚られる存在。
だが、弱いものが強いものの糧となるのは自然の摂理であり、それに介入するのは人間のエゴにすぎないのではないかとシモンは考える――しかし……。
逡巡は一秒にも満たなかった。
その間に、ジュリアの掌から炎がほとばしる。
「ファイア・ボルト!」
放たれた炎矢は遠すぎる標的をかすめもしなかったが、代わりに一行へと敵意を引き寄せる。
鋭い視線に気づいたハルカはすぐに忍刀を構える。
シモンは仕方ないとばかりにため息をつき、一歩前に出た。
逃げ場を失ったルッコもまた、シモンの後ろに隠れるように身を寄せ、ジュリアの両腕に抱え込まれる。
急降下してきたスワンプホークに、シモンは腰の剣を抜き放った。
刃を振るう代わりに、その身から殺気を叩きつける。
圧の奔流にさらされた猛禽は悲鳴をあげ、降下の体勢を崩し、無理やり旋回して遠ざかっていった。
シモンはしばし遠のく影を見つめ続ける。
モンスター相手とはいえ、自然の摂理に介入した引け目が胸に残り、無闇に斬り伏せることを避けたのだ。
「……助かった?」
ジュリアの腕の中で、ルッコは怯えながらもシモンを見上げ、よろよろと近づこうとする。
シモンはその頭を軽く撫で、苦笑混じりに言った。
「今度は狙われないように、うまく逃げろよ」
ルッコは「きゅっ」と短く鳴き、愛らしく尻尾を振った。
「行くぞ。目的地はまだ先だ」
シモンが歩みを再開し、ハルカが静かに頷いて後に続く。
ジュリアは振り返り、必死に小さな足でついてこようとするルッコの姿に胸を締めつけられる。
断腸の思いで、彼女はシモンを追い、先へ進んだ。
だが――ルッコは諦めなかった。
短い足では三人の歩幅に到底追いつけない。
それでも、ぴょん、ぴょん、と小さな跳躍を繰り返しながら草をかき分け、必死に追いすがってくる。
転びそうになってもすぐに起き上がり、つぶらな瞳でまっすぐこちらを見据えて。
「……まだ来てる」
「放っておけ」
振り返ったジュリアが、小さく呟く。
シモンは素っ気なく言い、歩調を変えなかった。
だが、懸命に跳ね続ける小さな影を、ジュリアはどうしても気にしてしまう。
やがて昼に差しかかり、一行は木陰で休憩を取った。
晩夏とはいえ、真上から照りつける陽光は強く、汗ばむほどの暑さだった。
シモンはポケットキューブから水筒と携帯食を取り出す。
黒パンにハーブで香りづけした鶏肉の燻製、甘酸っぱい乾燥ベリー、それに蜂蜜で固めたナッツバーといった簡素ながらも栄養の整った品々だ。
通常の冒険者食よりもずっと味わいが保たれているのは、保存状態を維持できるポケットキューブの恩恵にほかならない。
ただ――貴族令嬢として育ったジュリアが、こうした冒険者食を素直に受け入れられるだろうか。
シモンは一抹の不安を覚えた。
だがジュリアはためらうことなく手を伸ばし、ぱくりと口に運ぶと、「悪くないわね」と小さく笑い、隣のハルカと感想を言い合っている。
その様子を見て、シモンは自分の取り越し苦労に過ぎなかったと知り、ひそかに安堵の息をついた。
ジュリアが黒パンをちぎって口に運んだ、その時だった。
草むらががさりと揺れ、ハルカの手が即座に忍刀の柄へと伸びる。
鋭い視線を向けた先から、もぞもぞと小さな影が現れた。
――やはりルッコだ。
短い足でぴょん、と跳ねては、勢い余ってころんと転がり、それでも必死に駆け寄ってくる。
その不器用さすら愛らしく、見ている者の心を和ませる仕草だった。
シモンの視線が、ほんの一瞬その転がる様を追った。
健気な姿に「……可愛いな」と思わされ、我ながら年甲斐もないと苦笑がこぼれる。
その微笑を目にして、ハルカもわずかに肩の力を抜き、警戒を解いた。
やっとの思いで追いついたルッコは、ぜえぜえと肩で息をしながら、舌を突き出して荒い息をつき、ジュリアの膝に辿り着くと、その場にころんと腹ばいになった。
三人の視線など気にも留めず、まるで当然のように、無邪気に寝転がっていた。
ただ、疲れ切った体とは裏腹に、尻尾だけは元気よくぱたぱたと揺れていた。
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