第64話 炎の初戦果
夏休みの終わり、三人はワイアースの南門を抜け、街道を南下した。
暫く道なりに街道を進むと、その先は東へ折れた。
三人はそこで街道を外れ、さらに南へと歩を進める。
朝の陽光は高く昇りきらず、晩夏の空気はまだ柔らかい。
草原に踏み入ると、草葉の露が靴を濡らし、涼やかな風が頬を撫でていった。
シモンがちらと振り返り、静かな口調で告げる。
「ここからは、いつ魔物が出てもおかしくない。だが、無理に気を張るな、自然体でいい。ただ――普段と違う音や影に気づいたら、それを見逃すな」
ジュリアはきゅっと唇を結び、いつもより硬い面持ちで息をのむ。
全てが初体験の彼女にとって、その一言は緊張を帯びた現実の合図だった。
一方、ハルカはクールな表情のまま小さくうなずく。
戦場に慣れた者の自然な応答であり、彼女の静かな警戒心が言葉以上に伝わってくる。
先頭のシモンは歩調を崩さず、二人の足取りを確かめるように振り返っただけで前へ向き直る。
遠くには、目当ての採取地である湿地帯が白いもやを漂わせ、ゆるやかな陽射しの下に横たわっていた。
今回の目的は、冒険者ギルドで受注した薬草・水精草の採取依頼である。
依頼等級はEランク。本来ならFランクのジュリアには受注資格がないが、指導役として同行するシモンがいるため、実地指導の名目で認められていた。
冒険者は新人の生存率が低く、また生き延びても多くは早々に離職する。
そうした現実を踏まえ、ギルドはベテランが新人に付き添い、実地で学ばせることを広く推奨している。
今回の依頼もまた、その制度のもとに位置づけられていた。
あらかじめ戦闘については、ジュリアとハルカが前に立ち、シモンは基本的に指示に回ると決めてある。
「視線は足元と地平線、両方だ。油断するなよ」
「了解!」
先頭を歩くシモンが言うと、ジュリアが元気よく返事をした。
その後ろでは、ハルカが広く警戒を怠らない。
前方だけでなく後方や側面へも目を配り、歩みの緩急に合わせて位置を調整する。
その姿は、実戦経験の差を自然に示していた。
その時、草の海に風が走った。
ざわ、と波立つ音に、ジュリアは息をのむ。
その瞬間、シモンが低く呟いた。
「来るぞ……お客さんだ。二人とも、状況の変化に集中しろ」
ジュリアは反射的に鞭を握りしめた。
力がこもりすぎ、手のひらに汗が滲む。
鼓動の速さが緊張を隠さず伝えてくる。
一方、ハルカは忍刀の柄に手をやり、すっとジュリアの前に出た。
冷ややかな視線で前方を射抜き、いつでも刃を抜ける構えを見せつつ、自然にジュリアをかばう。
その直後、黒光りする塊が草むらから弾け出た。
スティングビートル――体長は大人の上半身ほどもあり、漆を塗り込めたような甲殻が陽光を弾く。
表面には細かな凹凸が走り、金属の鎧のように冷たい光沢を帯びていた。
頭部の先から突き出す角は槍の穂先に似ていたが、その鋭さは比ではない。
牛の角より太く、刃物のように磨かれた縁は、触れるだけで肉を裂くと直感できる。
あの質量が全力で突き込まれれば、人間の体など容易く貫き砕くだろう。
羽がぶるぶると震えるたび、低い唸りが地を伝い、胸の奥まで響いた。押し寄せる空気はただの風ではなく、圧迫感を伴う衝撃波のようで、眼前に迫る脅威そのものだった。
無造作に黒光りの巨体が突進してくる。
ハルカが即座に一歩踏み込み、抜きざま忍刀を振るった。
しかし刃は甲殻に弾かれ、甲高い音を残すばかりで深くは通らない。
「硬い甲殻と、正面の突進。だが旋回は鈍い。特徴を掴めば対処できる」
「了解」
ハルカは敵から目を離さず、短く返す。
声に揺らぎはなく、そのまま間合いを測り続けていた。
ジュリアは相変わらず鞭を握る手に力を込めすぎ、肩が上がっていた。
緊張が全身に回り、動きが硬くなるのが見て取れる。
シモンは横に並び、彼女の肩へ軽く手を置いた。
「お前は弱くない。いつも通りでいい、大丈夫だ。今は自然体で集中しろ」
何でもないような柔らかい調子だった。
けれどその一言に、ジュリアの瞳が揺れる。
こわばった肩がわずかに下がり、張り詰めた空気が少しだけ和らいだ。
敵の突進を紙一重で躱したハルカは、流れるように側面へ回り込む。
その動きを追うように旋回したスティングビートルが生んだ一瞬の隙を、ハルカは見逃さなかった。
忍刀の切っ先を甲殻の継ぎ目へ差し込み、そのまま力強く引き裂く。黒光りの巨体が断末魔の羽音を響かせ、草原に崩れ落ちた。
「やったの……?」
ジュリアの声は力が抜け、安堵と驚きが入り交じる。
「まだだ」
シモンの低い声が即座に返る。
言葉通り、草むらから新たな影が弾け出た。
別のスティングビートルがハルカの脇をすり抜け、一直線にジュリアへと突っ込む。
その瞬間、ハルカは身をひねり、鋭い回し蹴りを放った。
甲殻の塊が横から弾かれ、草原を転がる。
「打て!」
シモンの声が飛ぶ。
反射的に、ジュリアの掌に炎が集まった。
圧縮された火の矢が疾走し、体勢を立て直すより早くスティングビートルを貫く。
瞬間、爆ぜた炎に包まれた巨体は焼き尽くされ、草むらに残ったのは輝く魔石ひとつだった。
炎が収まっても、ジュリアはなお掌に魔力を纏わせたまま立ち尽くしていた。
戦闘が終わったことを頭では理解していても、張り詰めた集中を解き切れないでいるのだ。
シモンはそっと彼女の手に自分の手を重ね、「お疲れ」と柔らかく声をかけた。
その一言に、ジュリアは大きく息を吐き、肩で荒く呼吸しながらも、わずかに冷静さを取り戻していく。
ジュリアの視線は、自然と自分の手に落ちた。
力の入りすぎた右手は、いまだ鞭を固く握りしめている。
指先が白くなり、汗が滲んでいるのが見えた。
左の掌には、魔法を放った余韻が残っていた。
じんわりとした熱と、焦げた匂いが指の間から立ちのぼる気がして――それが確かに自分が魔物を倒した証であると告げていた。
両の手を見比べながら、ジュリアは胸の奥に残るざわめきを少しずつ落ち着けていった。
緊張が溶け、代わりに静かな実感が心の底に沈んでいく。
「集中と警戒は大切だが、同じくらい冷静さも大切だ」
「……触っても、大丈夫?」
恐る恐る問うジュリアに、シモンは軽く頷いて応える。
静かに佇む魔石をその手に取ると、胸の奥が一気に熱を帯びた。
緊張で固まっていたはずの指先が震え、その震えさえも力強い脈動に変わっていく。
手の中の魔石は、紛れもなく自分の魔法で打ち倒した証――初めての戦果だった。
「できた……私にもできたんだ」
昂ぶる感情が波のように押し寄せ、戦闘時とは別の高揚がジュリアの顔に浮かんでいた。
強張っていた顔は徐々に解け、震えていた唇ははっきりとした弧を描いた。
瞳には確かな光が宿り、それは自信を深めた者だけが浮かべる、力強さを備えた笑みだった。
汗に濡れた掌も、焼け付くような余熱も、そのすべてが確かに「生きて勝ち取った証」であると告げていた。
シモンは周囲を一瞥して脅威がないことを確認すると、今度はハルカのもとへ向かった。
草むらに横たわるもう一体のスティングビートルを指し示し、穏やかな声で言う。
「さあ、こっちはお前に任せる。魔石の取り出し方を教えよう」
ハルカは無言でうなずき、最後に一度周囲を見まわすと、忍刀を納めシモンの元へ駆け寄った。
シモンは自らナイフを抜き、ハルカの倒したスティングビートルへと膝をついた。
甲殻の隙間を迷いなくなぞり、ためらいなく刃を差し入れる。
わずかな手応えのあと、黒光りする核――魔石が引き抜かれた。
ハルカの目がわずかに見開かれる。
「……死骸から、取り出せるのですね」
「自然に霧散しても魔石は残る。ただ、この魔石や、霧散する魔素に引き寄せられて、別の魔物が寄ってくることもある。そうなれば連戦を強いられて、命がいくつあっても足りん」
シモンは手にした魔石を軽く掲げ、口元に笑みを浮かべる。
ハルカは引き締めた表情を崩さず、魔石に視線を向けた。
「だから魔石を持ったままのんびり歩き回るのは危ない。……まあ、どうしてもなら“餌”にして放り投げて、逃げ道を作るのも上手いやり方だな」
いつの間にか寄ってきたジュリアが、きょとんと目を丸くする横で、ハルカは真剣にうなずいた。
胸の内で、シモンはさらに思う。
魔石をわざと置いて魔物を呼び込み、狙い通りの戦場をつくる――そんなやり方もある。
だが、それを教えるにはまだ早い。
今は口にせず、自分の中にしまっておいた。
「魔石の位置や取り出し方は、経験がものを言う。慣れれば見ただけで見当がつく。もしくは魔力や精を探ることでも探ることは可能だ」
「はい。精進します」
ハルカは真剣な声で答える。
その横顔には、無駄のない冷静さと学ぼうとする意志が同居していた。
シモンはふっと微笑み、肩の力を抜くような調子で言った。
「これからいくらでも機会はある。じっくり行こう」
シモンはポーチから清潔な布を取り出し、手にした魔石を軽く拭った。
澄んだ光を放つそれをハルカに手渡す。
ジュリアは横目でそれを見つめ、静かに感慨を覚えていた。
ハルカは受け取った魔石を丁寧にしまうと、すぐに警戒の姿勢へと戻った。
「目的地はまだまだ先だ。このあとも油断せずに行くぞ」
「はい!」
「了解」
シモンの声に、二人は同時に返事を返す。
ジュリアの声は力強く。
ハルカは短く、しかし確かに。
三人の足取りは再び南へと向かう。
陽は少しずつ高くなり、遠くの湿地帯はなお白いもやを湛えて、静かに彼らを待っていた。




