第61話 未来の礎
しつこく追い回してくるジュリアを何とかやり過ごし、修行場を抜け出したシモンは、庭を横切り、屋敷へと続く回廊に足を踏み入れた。
いったい何が彼女を怒らせたのか、正直なところ理解に苦しむ。
だが、あのひたむきな執念は悪くない――むしろ立派なガッツだと認めざるを得なかった。
(もっとも、あれを発揮しながら冷静さを失わずにいられるかどうか……課題はそこだな)
こんな時でも教え子の指導を考えてしまう自分に、シモンは肩をすくめた。
磨き込まれた大理石の床が靴音を澄んだ響きに変え、壁には代々の当主の肖像や家紋入りのタペストリーが整然と並んでいる。
華美すぎず、由緒ある気品を湛えたその空間は、アーデルシア家の歴史そのものを物語っていた。
そんな廊下の先で、ヴァレリオが姿を現した。
「シモン様、ちょうどよろしいところで。旦那様がお呼びです」
「爺さんが?」
「ええ。少しお話があるとのことです」
軽く会釈するヴァレリオに頷き返し、シモンはその案内に従った。
重厚な扉が開かれると、そこはテラノスの私室だった。
壁一面に書架が広がり、古今の魔導書や地誌がぎっしりと並んでいる。
その合間に、八咫の国から取り寄せた掛け軸や陶器、和綴じ本が静かに調和していた。
異国情緒と学究の気配が交じり合い、主人の人となりを映し出す空間である。
窓際の椅子に腰掛けていたテラノスが、豪快な笑みを浮かべて迎えた。
「おう、シモン。よく来た。ヴァレリオも一緒に腰を下ろせ」
「旦那様のお言葉ですので」
ヴァレリオは静かに従い、シモンも遠慮なく席につく。
三人が揃ったところで、シモンは背筋を正した。
「今更かもしれないが、本題に入る前に、一つ言わせてくれ。――まず、執事殿。あの時、ハルカとの主従契約で取りなしてくれたこと、感謝している。そして爺さん、執事殿。修行の名目で、あの娘を屋敷に置いてくれたことにも礼を言いたい」
真摯な眼差しを向けるシモンに、ヴァレリオは一瞬言葉を選ぶように目を伏せた。
やがて静かな声音で口を開く。
「ハルカさんは呑み込みが早く、勤勉な娘です。何よりも、シモン様のためにという献身が大きい。私にとっても学ぶところが多い存在ですよ」
彼の表情には、単なる義務ではなく、真摯な評価と情のこもった色が浮かんでいた。
シモンは満足げに頷き、口元を緩める。
「執事殿に任せておけば、何の不安もないな」
言葉の重みに応えるように、ヴァレリオは軽く背筋を伸ばし、誇らしげに微笑んだ。
「ええ、お任せください」
二人の間に交わされたやり取りは、形式ばった礼辞を超えたものだった。
互いの信頼が言葉となって響き、重苦しさのない温かな空気がその場を満たしていった。
やがてテラノスが身を乗り出し、声を潜めるように問う。
「では本題なんだが、シモン……ジュリアの修行の進みはどうだ? 冒険者としてやっていけそうか」
シモンは腕を組み、しばし沈黙した。
目を閉じ、考えを整理してから口を開く。
「順調ではある……だが、いずれ“現実”を知ることになるだろうな。ジュリアはまだ、本当の意味で世の中の悪意を知らない。人を騙す者、陥れる者、平然と人を傷つける者……善人の仮面をかぶって悪意を振りかざす奴もいれば、隠そうともしない剥き出しの悪意の人間もいる。そうした生々しい現実を知らなければ、冒険者の世界では生き残れん。甘ちゃんのままでは、せいぜいカモにされるのがオチだ」
そこまで告げると、シモンは短く息をつき、言葉を選ぶように視線を落とした。
「……だが、だからこそ俺は、あの娘に見極める目を持ってほしいと思っている」
テラノスは顎に手をやり、ゆっくり反芻するように呟いた。
「善人の仮面をかぶりながら悪意を振りかざすもの、か……まるで貴族じゃな」
口元に皮肉めいた笑みが浮かぶ。
「……そういう意味じゃなかったんだが。爺さん、失礼した」
シモンが頭を下げると、テラノスは手を振って笑った。
「気にするな。世俗の垢など、貴族なら知っていて当然じゃ。それを知る年になったというだけよ」
その声音には、諦観とも達観ともつかぬ響きが漂っていた。
シモンは小さく息をつき、言葉を継いだ。
「ジュリアは一途で優しい娘だ。その分、現実に苦しみ、傷つくこともあるだろう。だが同時に、強くて賢い娘でもある。――たとえ倒れても、必ず立ち上がってくれるさ」
テラノスは目を細め、やがて豪快に笑った。
「ははは! そうじゃな。あの子なら、何度だって立ち上がるじゃろう。――それに」
笑いを収めた彼は、意味ありげに視線を送りながら、ニンマリと口角を上げる。
「シモンが付いておるんじゃ。そう思わんか、ヴァレリオ」
「仰せの通りかと。シモン様にお任せすれば、何の不安もございません」
ヴァレリオは主人の意を正確に読み取り、澄ました顔で先ほどの意趣返しを放った。
「おいおい……あんまり期待されても困るが――俺に出来る最大限を尽くそう」
シモンもまた二人の趣向に応じ、ニヤリと笑みで返すと、場は穏やかな笑い声に包まれた。
笑い合った後に残ったのは、年長者たちの揺るぎない決意だった。
ジュリアとハルカ――二人の少女が、やがて自らの足で立ち、望む未来を切り拓いていくために。
大人たちはただ、その背に託せる限りの知恵と強さを授け、未来への礎とならんとしていた。




