第60話 乙女の心理と男の真理
朝練を終えた私兵たちが、ぞろぞろと修行場を引き上げていく。
汗に濡れた木剣を肩に担ぐ者、仲間と笑いながら水を飲む者。
その背が屋敷の向こうに消えると、修行場には一気に静けさが訪れた。
さっきまで響いていた剣戟や掛け声が嘘のように消え、残されたのは蝉時雨と、熱を帯びた空気だけだった。
だが、静寂は長く続かなかった。
中央には木製の訓練用人形が立ち、その前にジュリアが立ち向かっていたのだ。
彼女は鞭を構え、打ち下ろす。
乾いた破裂音とともに木人形の腕や脚を叩き、また振り上げる。
まだ初心者であるはずなのに、姿勢は真剣そのものだった。
「肘が流れているぞ、脇を締めて肩で引け」
「はいっ!」
シモンの注意に即座に応じ、ジュリアは動作を修正して次の一打を放つ。
彼は少し離れた位置から、鞭の軌道や足の運びをじっと観察していた。
今のうちに正しいフォームを身につけさせねば、悪い癖がついて後々取り返しがつかなくなる――そう心得ているからだ。
やがて何十打目かを数えたところで、シモンが声をかけた。
「よし、一度休憩しよう」
「……分かったわ。ちょっと顔を洗ってくるわね」
ジュリアは息を荒げながらも従い、額の汗をぬぐって修行場を後にする。
その背を見送るシモンのもとへ、タイミングを見計らったように、メイド服へ着替えたハルカが小走りで近づいてきた。
「あの……シモン様、ご相談があるのですが」
「どうした」
「……最近、メイドの務めが忙しくて。修行の時間を思うように取れないんです。それでどうしても不足を感じてしまって……」
言いにくそうに視線を落とす彼女を見て、シモンは少しの間考え込んだ。
(やはり時間的に両立は難しいか……ならば工夫するしかないな)
やがて口元に薄い笑みを浮かべる。
「一つ俺に案がある」
その言葉に、ハルカは目を見開き、期待を込めて頷いた。
シモンは懐から、掌に収まるほどの立方体を取り出す。
淡い光を帯びながら魔法陣が浮かび上がり、ゆっくりと回転を始めた。
「それは……?」
「ポケットキューブと言ってな。物を出し入れできる魔導具だ。収納や取り出しには少し時間がかかるが、一人につき一つまで所持できる」
シモンはポケットキューブの概要だけを簡潔に説明した。
細かな仕様や制限については、今は敢えて省いている。
光の変化を凝視しながら、ハルカは小さく首をかしげる。
「……あまり変化はないですね」
シモンは口元をわずかに緩め、軽く肩をすくめた。
「焦るな。待機時間は物によって前後する。軽い物ならすぐ出るが、大きかったり重い物や魔力を帯びた道具だと、それだけ遅くなる」
説明を聞きながら、ハルカは胸の前で両手を組み、素直に頷いた。
「なるほど……でも、便利そうですね」
シモンは視線をキューブに戻し、淡々と付け加える。
「便利だが、欠点もある。戦闘中など、即座に取り出したい場面には不向きだ。旅の荷物入れや、保管スペースと割り切るべきだな」
言葉が終わるころ、キューブの光は一段と強まり、魔法陣から金属のリングがゆっくりと押し出されるように姿を現した。
「……あ、本当に出てきました! すごいです、まるで魔法みたい……あ、魔導具でしたね」
目を輝かせて見入るハルカは、小さな子供のように笑みをこぼす。
「ほら、百聞は一見にしかずだ」
「はい……って、よくそんな八咫の言葉知ってますね」
「……まぁな」
シモンは、その素直な反応が嬉しいのか、ニコっと微笑むと、それ以上を語らず、指先でリングをくるくると回した。
そのままハルカを修行場の端のベンチに座らせ、片膝を立ててしゃがみ込む。
「ちょっと失礼するぞ」
靴を脱がせ、ソックスを足首まで下ろすと、露わになった白い肌に金属の輪をそっと当てた。ひやりとした感触とともに、輪はぱちりと小気味よい音を立てて閉じ、ぴたりと足首に収まる。
「立てるか」
促されるままに立ち上がったハルカは、恐る恐る一歩踏み出してみる。
「……あまり違いは感じませんね」
シモンは口の端をわずかに吊り上げ、意味ありげな笑みを浮かべた。
「そう思うだろ? だが――両足に付けると、結構違うんだ」
言葉とともに、反対の足首へもう一つのリングを嵌める。
途端に、足取りが少し重たくなり、膝がわずかに沈む。
歩こうとすれば足が思うように上がらず、無理に動かそうとしたハルカは短い息を洩らした。
「っ……これは……!」
「重さに加えて、魔素や精の流れにも負荷が掛かる。歩くだけでも鍛錬になるし、修行で使えばさらに効率は上がる」
ふらつきながらも体勢を整えたハルカは、頬に汗をにじませつつも、感心したように頷いた。
「なるほど……確かにこれなら、日常と修行を両立できそうです」
その反応に、シモンも満足げに顎を引いた。
「外したくなったら、嵌めている部分に魔素か精を集中しながら解除を念じろ。それで外れる」
「はい」
慣れない負荷に、ハルカの足取りはおぼつかない。
よろめき、転びかけ――なんとか手をついて四つん這いの体勢でこらえた拍子に、スカートがめくれ上がってしまった。
背後にいたシモンの位置からは、小振りだが肉感的なお尻と、鮮やかなライトグリーンの下着がはっきりと見えてしまう。
だが、ハルカは負荷に気を取られ、自分の格好にまで気が回っていない。
(……指摘したら余計に恥をかかせるだけだな)
偶発的とはいえ、下着を見てしまシモン自身も羞恥を覚え、思わず視線を逸らそうとした――次の瞬間、シモンの思考は奇妙な学術の道へと脱線した。
(羞恥とは……一体なんだ? 羞恥はどの条件で発動するのか――これは検証の必要がある)
まず脳裏に浮かんだのは、先ほど訓練時のジュリアのブルマ姿である。
転倒してスカートがめくれたにもかかわらず、彼女は一切動じなかった。
羞恥を覚えていたのは、当事者ではなく、観測者である自分だった。
仮説①:布地依存説
ブルマは衣服、下着は秘匿物。
だからジュリアは平然としていた――合理的な説明に思える。
(……だが待て。もしスカートを穿かず、ブルマだけだったら? 露出は増すが、あの時のような羞恥は生じない気がする。よって、この仮説は不十分だ)
仮説②:偶発露出説
羞恥は「意図せぬ露出」によって生じる。よって、スカートがめくれたから恥ずかしい。
(筋は通る。だが、実戦中にハイキックの拍子で、下着が露わになることもある。その場で羞恥を覚える者は少ない。それは当事者も観測者も同様だ。偶発性だけでは弱い……これも不十分だな)
シモンは短く息をつく。
(……結局、羞恥とは何だ? 布地か、偶発か。条件を並べても決定打にならん。これは心理学……いや哲学の領域だ。真理に辿り着くには、俺はまだ若すぎるのか……)
そこでようやく、自分が何を真剣に考えているのかに気づき、シモンは咳払いで誤魔化した。
ハルカの後ろ姿に視線を送りながらも、シモンはわざとらしく話題を変えた。
「……まぁ、負荷を増したいなら両手にも付けられるが、それは慣れてからだな」
「そ、そうですね。……しばらくはこれで十分かと……」
――その時だった。
研ぎ澄まされた感覚が、殺気にも似た怒気を察知した。
シモンが反射的に身を翻すと、さきほど立っていた位置に一条の衝撃が叩きつけられる。
「何をご覧になりながら、お話ししているのかしら」
そこにいたのは、夏の太陽もかすむほどギラギラした目で鞭を構えるジュリア。
「い、いや、違うんだ……」
「問答無用。――ハルカ、このスケベ、アンタの下着見て鼻の下伸ばしてたわよ!」
この時、シモンの気遣いは無に還った。
「え、ええっ!?」
ハルカは慌てて立ち上がり、スカートを何度も伸ばして押さえ込む。
真っ赤になって俯きながら、上目遣いで声を上げた。
それがいけなかったのだろうか、ジュリアは目をすぅーっと細めると、視線をハルカからシモンへと移した。
「さて……もう少し鞭の練習をしようかしら。……ちょうどいい標的がいるじゃない」
ジュリアはゆっくりとシモンに向き直ると、初心者とは思えぬ手さばきで鞭を空打ちした。
乾いた破裂音が修行場に響き渡り、ベテラン冒険者のシモンですら一瞬たじろがせる。
シモンの判断は早かった。
言い訳は火に油を注ぐだけと悟り、無言で駆け出した。
「待ちなさい! スケベ! 変態! 覗き魔!!」
修行場には、朝の蝉時雨をかき消すほどの狂騒劇が展開され、鞭の音と、華麗な身のこなしが夏の空気を揺らしている。
「大人しく打たれなさい、スケベ!」
「無茶を言うな!」
鞭という武器は、長い間合いと軌道の柔軟さを併せ持つ反面、扱いの難しさという癖の強さを抱えている。
だからこそ使い手も極端に少ない。
まして走りながら振るえば、その制御難度はさらに跳ね上がる。
ジュリアはシモンを追いかけながら何度も鞭を打ち込むが、その軌道はまだぎこちなく、狙いも甘かった。
だが、十発、二十発と振るううちに、徐々にその一撃は鋭さを増していく。
ヒュン、と頼りなく空気を叩いていた音は、やがてビシッ、と鋭く空を裂く音へ変わっていた。
恐るべき才能と言うべきか、それとも異常な適応力と言うべきか。
教え子の目覚ましい成長ぶりに、シモンは内心で舌を巻く。
――だからといって、当たってやるわけにはいかない。
鞭は刑罰に使われるほど、本気で痛い武器なのだ。
結果としてシモンは、不本意ながらも、動きながら鞭を振るう難しさと、動く標的を捉える難易度を、自らの回避で身をもって教えることになっていた。




