第62話 鞭と無知とムチムチ ―Haruka's Side―
ある日の訓練場。
訓練場、もとい修行場には、気迫のこもった掛け声と、木剣の音が響いていました。
午後の修行はお嬢様と非番の私兵の方が中心で、私、ハルカはメイドとして水やタオルを用意しながら、その様子を見守っています。
だけど、この日は……いえ、この日も、少しだけ様子が違っていました。
いつもなら時間を気にせず、徹底的に打ち込みをさせるシモン様が、やけに時刻を告げる魔工鐘を気にしているように見えたのです。
そして、夕方前の鐘が鳴ったとき――。
「……よし、今日はここまでだ」
まだ太陽も高くあるのに、切り上げの合図が出されました。
「えっ、もう終わり? まだ全然動けるのに」
お嬢様――ジュリア様が不審げに眉をひそめます。
私も同じ疑問を抱いていましたが、理由までは見当もつきません。
その後、お嬢様はガレスさんに尋ねていました。
「ガレス、なにか知ってる?」
「いえ、私は何も」
困惑顔の返事に、私も首を傾げるばかりです。
ところが控えていたガレスさんの部下が、ぽつりと口を開きました。
「そういえば昨日、街中で師匠を見かけました。その……若い美人の女性と一緒でした」
「なっ……!」
お嬢様が思わず声を上げ、私も胸がざわつきました。
「おい、余計なことを言うな」
すぐにガレスさんが部下を窘めます。
気づけば、シモン様の姿はもうどこにもありませんでした。
結局その日は、それ以上のことは分からず、疑念だけを抱えたまま終わったのです。
翌日。
訓練場ではお嬢様に新しい課題が課されました。
基礎の素振りに加え、複数の標的に数字を付け、シモン様が指定する番号を瞬時に打ち込むという訓練です。
「三!」
「えっ……と――さんっ!」
最初は戸惑っていたお嬢様も、やがてテンポをつかんできました。
指示に従いながら体勢を崩さず打ち込むのは難しいはずです。
けれど、そのぶん集中力が高まるのか、次第に楽しげに夢中になっていきます。
「ふぅ……これは、面白いかも!」
「調子に乗るな。まだ始まったばかりだ」
シモン様の厳しい声に、お嬢様は口を尖らせながらも、どこか満足そうに息を吐いていました。
そして今日も、シモン様が修行を早く切り上げました。
(……またですか?)
お嬢様も私と同じ疑念が膨らんだのでしょう、決意を込めた目をこちらへ向けてきます。
「ハルカ、ついてきて!」
「えっ……えぇっ!?」
私の返事を待つこともなく、先に行ってしまうお嬢様を、結局追うしかありませんでした。
お嬢様は事前に用意していた服を取り出しました。
「変装すれば怪しまれないわ。ほら、これを」
「何のお話ですか? それに……ちょっと、これ小さくないですか?」
「大丈夫、大丈夫。多分なんとかなるわ!」
渡されたのは、お嬢様のワンピースでした。
小柄な私に丈は十分でしたが、唯一胸だけが窮屈で、前のボタンは頑なに閉じようとはしてくれません。
「き、きついです……動いたら破けそうで……」
「がまんがまん!」
無理やりボタンを留めようと、私は顔が真っ赤になってしまいました。
必死にボタンと格闘している私をよそに、お嬢様はさっさと歩き出してしまいます。
「お、お嬢様! ちょっと待ってください!」
ジュリア様を一人にしておけるはずもなく、私は無理やり押し込み、胸の締めつけに耐えながら、その背中を慌てて追いかけました。
シモン様を追って、街までやってきた私たちは、二人で物陰に隠れながらシモン様を尾行します。
街中を歩くシモン様は、ふと店先のガラスに映る自分を見て髪を直しました。
「……身だしなみを気にしてる。やっぱり女と会うのね」
お嬢様が小声で呟きます。
不機嫌そうな様子に、私は苦笑いを堪えました。
でも……髪型を直したように見えましたが、ひょっとして――。
「しっ、静かに!」
お嬢様に押された拍子に、私は樽へぶつかってしまいました。
――ガタンッ。
二人して息を止め、心臓が飛び出しそうになります。
「もっと腰を低くして!」
「む、無理ですって……!」
しゃがむたびに服がさらに締めつけ、ワンピースが今にも裂けそうで――私は内心で悲鳴を上げました。
そんなドタバタを繰り返しているうちに、シモン様の元に一人の若い女性が現れました。
すらりとした肢体に張り付くようなタイトなスカート。
その布地には大胆なスリットが入り、歩みのたびに白い脚がのぞきます。
切れ長の瞳に浮かぶ笑みは、妖艶そのものでした。
お嬢様はじっとその女性を見定め、みるみる顔を険しくしていきます。
そんなお嬢様とは裏腹に、私は思わず感心して口をついてしまいました。
「……わあ、すごく綺麗……」
その瞬間、お嬢様の視線がぎろりと私に突き刺さります。
はっとして両手で口を押さえ、私は小さく身をすくめました。
(な、なぜ私が睨まれるんですか……!)
シモン様と女性は並んで歩き出し、どこか別の場所へ向かうようでした。
慌てて追跡を続けましたが、いくつめかの曲がり角を曲がったところで姿を見失ってしまいます。
「ど、どこに行ったの!?」
「見当たりません……!」
焦る私たち。その背後から――。
「何をしている?」
「ひゃあっ!」
不意に声をかけられ、私たちは同時に飛び上がりました。
その瞬間、ぱちん、と鋭い音を立ててワンピースのボタンが弾け飛び、地面を転がります。
「~~っ!?」
押し込められていた胸が勢いよく飛び出し、私は顔まで真っ赤になって慌てて押さえ込みました。
解放感と羞恥がごちゃ混ぜになり、言葉が出ません。
「……一体何をやってるんだ」
シモン様は赤くなった顔に手を当て、わざと視線を逸らすように明後日の方を向いていました。
お気遣いはありがたいのですが……よりによって、こんな日に限って色気のないグレーのスポーツブラなんて。
(どうせなら、もっと女の子らしい可愛いのを着ている日に見られたかったです……!)
ひとしきりの騒ぎのあと、私たちは人目を避けて人気のない路地裏へと移りました。
シモン様は無言でポケットキューブを取り出すと、大きめのタオルを取り出し、ふわりと私の肩に掛けてくださいました。
胸元を必死に押さえていた私は、その温もりにようやく安堵の息をつきます。
「それで、これはいったい、どういうことなんだ」
シモン様の低い声。
お嬢様は一瞬たじろぎましたが、すぐに口を開きました。
「き、気になったのよ。毎日修行を早く切り上げて……街で誰かと会ってるって聞いたら、確かめたくなるじゃない!」
その声には、半ば言い訳のような響きが混じっていました。
私は横で小さくうなずきます。
「……私も止められなくて。申し訳ありません」
素直に打ち明けると、シモン様は深く溜め息をつきました。
「まったく、お前たちは……」
そう言ってから、ようやく隣に立つ女性を紹介します。
「彼女はアニー。鞭の使い手として、ワイアースでも指折りの冒険者だ」
アニーさんは首を傾げ、にっこり微笑みました。
シモン様は続けます。
「お前の訓練のために、彼女から鞭の練習方法を教わっていた」
「わ、私のために……」
事情を知ったお嬢様は、真っ赤になりながら頭を下げます。
「……早とちりして、すみませんでした」
「いいのよ。可愛いお嬢さんたちじゃない」
アニーさんは肩を竦めて、余裕を見せました。
「それと――尾行をするなら、もっと静かにしろ。あれじゃ気づいてくれと、言っているようなものだぞ」
苦笑いを浮かべたシモン様の声が飛びます。
「……精進します」
私は言い訳をせず、素直に頷きました。
ひとしきり事情が分かったところで、アニーさんが意味深に口を開きました。
「さぁ、これ以上暗くなる前にお帰りなさい。ここからは大人の時間よ」
「なっ……!」
お嬢様は子ども扱いされてたことに、むっとしましたが、唇を噛んで答えます。
「……わかりました。さぁ、帰るわよ」
そしてシモン様の袖をつかみ、連れて帰ろうとしました。
しかしアニーさんは素早くシモン様の反対の腕を取り、余裕を漂わせながら言い放ちます。
「残念ね。シモンはこれから、私に付き合うの」
急に板挟みになったシモン様は、困ったように目を泳がせました。
「ま、まあ……落ち着け。ここはみんな仲良く、食事でも――」
よりによって、そんな提案は火に油を注ぐものでした。
(……師匠、なぜここで食事の話を……!)
アニーさんがスリットと反対側に身につけていた鞭を手に取り、お嬢様もまた手元に魔力を集中させます。
「ねぇ、これはどういう事? はっきりしてもらいましょうか?」
「もちろん、シモンは帰るわよね?」
「お、おい、待て! やめろ!」
慌てて両者を宥めるシモン様の声をかき消すように――鞭が空気を裂く音と、魔力の爆ぜる音が重なりました。
(……その選択は明らかに悪手です。どうして戦闘時の冴えが、こういう場面では発揮されないのでしょうか)
私は肩に掛けられたタオルをぎゅっと握りしめながら、深いため息をついたのでした。
さんざんな一日でしたが、それでも学びはありました。
(変装はサイズを確認すること。お嬢様を止められる強さを持つこと。あとは――可愛い下着をちゃんと用意しておくこと!)
顔が火照るのを感じながらも、私は視線を上げて誓いました。
(……次こそは、絶対に失敗しません!)




