第53話 少女と訓練と新たな教え子
ジュリアの夏季休暇も半ばを過ぎた、蒸すような早朝。
朝陽はすでに力強く、空気は湿り気を帯び、じっとしていても汗ばむほどだった。
広々としたテラノス邸の訓練場は、今日も始まる鍛錬の時を静かに待ち構えているようだった。
その中心に立つのはシモン。
目の前の少女――ジュリアは軽く身体をほぐしながら、うっすら汗を浮かべている。
早朝にもかかわらず、眠気など一切感じさせず、夏の日差しのようなやる気が漲っていた。
淡いピンクの半袖ボタンシャツと、真っ白なショートスカート。
彼女の訓練服は涼やかでありながら動きやすさも備えていた。
陽光を受けて白い布がきらりと揺れるたび、彼女自身の決意が際立つように見えた。
場内の端で、訓練の準備を手伝っていたハルカは、エプロン姿のまま桶を並べていた。
そんな彼女へ、背後から静かな声がかかる。
「ハルカさん」
振り返れば、執事ヴァレリオが落ち着いた眼差しを向けていた。
「以前お願いしたお嬢様の護衛の件ですが、任じられた以上、共に訓練を積むべきではないでしょうか。……シモン様は如何お考えですか?」
ヴァレリオの言葉どおり、ハルカはすでにジュリア付きメイドのニーナを補佐する役目を与えられており、日常の務めに加えて護衛の任も負っていた。
シモンはわずかに目を見開き、ハルカへと視線を向ける。
そして小さく頷いた。
「構わない。本人にその気があるなら、歓迎するさ」
ハルカの瞳がぱっと輝いた。
「はい。ぜひ、参加させてください!」
その声は、かつての敗北を思い出しているからこそ強く響いた。
ヴァイアンに敗れ、果たせなかった本懐の悔しさが、今も胸を焦がしている。
シモンと共に歩むためにも、ハルカには力が必要なのだ。
「シモン様、お二人をどうぞよろしくお願いします」
ヴァレリオは礼儀正しく一礼すると、屋敷の早朝業務に向かった。
ほどなくしてミーナに連れられ、ハルカも訓練服へと着替えて戻ってきた。
水色に淡い黄色を差した半袖シャツに、同じく白いショートスカート。清楚でありながら快活さを感じさせる装いだ。
ジュリアと並んだその姿は、自然と二人の違いを際立たせた。
標準的に整ったジュリアの体型に対し、ハルカは小柄ながらも引き締まり、それでいて女性らしい豊かな曲線を持つ。
「……」
シモンの視線が、ほんの一瞬だけハルカの胸元に吸い寄せられた。
「っ……!」
ハルカは頬を染め、目を伏せてはにかむ。
「……スポーティーなのも、よく似合ってるな。――よし、始めようか」
シモンは何事もなかったかのように開始を告げ、ハルカはさらに紅潮した。
だが、ジュリアは見逃してくれなかった。
「ちょっと! なにさらっと誤魔化してるのよ、このスケベ!」
夏の朝の熱気に混じり、彼女の非難の声が庭いっぱいに響いた。
準備運動は訓練場を軽く走ることから始まった。
並んで走るジュリアの視線は、隣のハルカの胸元へとつい向いてしまう。
先ほどのシモンの態度を思い出し、胸の奥が妙にざわついた。
(……少し……じゃないけど、大きいじゃない……!)
ハルカはその視線に気づきながらも、あえて気づかぬふりをして前を見据え、黙々と走り続ける。
身体が温まったところで、ジュリアの次の課題は魔力制御を絡めたランニングだった。
右手には火属性の魔力球、左手には無属性の魔力球。
二つを維持しながら走るのは容易ではなく、額に玉の汗が浮かぶ。
走る速度は先ほどより明らかに落ち、呼吸はむしろ苦しさを増していた。
「……はぁっ、はぁっ……っ」
属性の異なる魔力が干渉しそうになるたび、ジュリアの足はさらに鈍り、表情は険しさを増していった。
一方でハルカには、基礎能力を測るテストが課されることとなった。
ジュリアが魔力球を維持して走るのに対し、ハルカは身体能力を測る。
――ハルカの現在地を把握するためだ。
開始に先立ち、シモンが腕を組んで問いかける。
「……確認しておくが、俺は忍術そのものを指導できる立場じゃない。俺が扱うのは剣術であって、忍びの流儀とは別物だ」
その上で視線を向ける。
「今後も戦うときは、忍びの流儀でいくつもりか?」
「はい。忍びとして身につけた技こそ、私の戦い方です」
迷いのない返答に、シモンは小さく頷いた。
「……なるほど。お前の忍術、真氣活殺術を源流にしているんだよな?」
「はい。間違いありません」
短く返すハルカに、シモンはわずかに目を細める。
「なら話が早い。俺の修めている真巽流剣術も、元をただせば同じ流れだ。だから基礎的なことだけは伝えられる。だが、それ以上は基礎的な戦闘訓練、それに冒険者としての立ち回りや、現場での生き方になる。……それで構わないか?」
「はい。むしろ、それを望んでいます」
強く頷いたハルカの瞳に、決意が宿っていた。
シモンはその決意を受け取ると、ポケットから小型のクロノジェムを取り出し、作動スイッチを押した。すると魔力が流れ込み、クロノジェムは一定の間隔で正確に時を刻み始めた。
「これから基礎能力のテストをする。敏捷力、筋力、そして持久力――順に見ていくぞ。基礎を測り、今後の課題を決めるためだ」
淡々と告げる声に、ハルカは真剣な眼差しで大きく頷いた。
最初は敏捷力――反復横跳び。
ハルカは地面を蹴るたびに影のように素早く左右へと切り返す。
小柄な身体が軽やかに跳ねる様は、さすが忍びと唸らせるものがあった。
「敏捷速度は良好だな。動きも軽い」
続いて筋力――腕立て伏せと懸垂。
顎を引き、額に汗を浮かべながらも、一定のリズムを崩さずに数を重ねていく。
最後は腕を震わせながらも限界まで挑みきった。
「体幹はもう少し鍛える必要があるな。筋力は忍びとして戦うなら及第点だな」
次に筋力と平衡感覚――木登り。
ハルカは幹に手足を掛けるや否や、一気に駆け上がった。枝に身を預け、軽く呼吸を整える姿は、森を駆けていた彼女の過去を想像させる。
ただ、ショートスカート姿のまま木に取りつく様は、無意識とはいえ目のやり場に困るものがあった。シモンは自分で指示しておきながら、わずかに頬をかき、視線を外した。
「……悪くない。身軽さは十分だ」
そして最後に持久力――全力疾走。
クロノジェムの光が流れ、時を刻むなか、ハルカは地面を蹴った。
小柄な身体が風を切り、額から汗が飛ぶ。
ペースは衰えず、むしろ終盤に差し掛かるほどに苦しげな表情を浮かべている。
(……限界を超えてでも食らいつこうとしてるか。なかなか根性あるじゃないか)
シモンはクロノジェムを見ながら小さく頷いた。
そのとき――。
「ほう、面白いのをやっとるのう」
庭の方からひょっこり現れたのは、手に土のついた小柄な老人、テラノスだった。庭仕事のついでとい
った様子で、涼しい顔をして訓練場を覗き込む。
シモンは手元のクロノジェムから視線を外し、ちらりと声の主に目をやった。
「おはよう、爺さん」
「おう、シモン。朝から精が出るのう」
軽口を交わした二人は、肩を並べて訓練場を眺めた。
ジュリアは必死に魔力球を維持しながらペースを落とし、汗を浮かべて歯を食いしばっている。
ハルカは小柄な体で全力疾走を続け、額から飛ぶ汗も拭わずに走り抜けていた。
二人の姿を、老人と若者はしばし黙って見守った。
「若いというのは良いものじゃな」
「まあな」
素直に相槌を打つシモン。
「大きく育ってほしいものじゃ。特にジュリアには、のう」
テラノスは髭に手をやり、目を細めて感慨深く呟く。
「ああ……そうだな」
シモンは頷きながらも、孫娘であることを差し引いても“魔血”のことだろうと胸中で理解する。
――だが次の瞬間。
真面目な顔をしていたはずの老人の口元が、だらしなく崩れた。
「もちっとボリュームが欲しいところじゃが」
「ああ……え?」
噛み合ったはずの会話が、途端にずれていく。
「これから期待じゃな」
テラノスの視線がハルカの胸元へ注がれているのに気づき、シモンは呆れ顔で深く息を吐いた。
「どうせお主も見ていたんじゃろ?」
「……」
テラノスは悪戯っぽい視線をシモンに向けて茶化すが、シモンは敢えて無視してゴールにたどり着いたハルカに歩み寄り、肩へ軽く手を置く。
「よく頑張ったな。お疲れさん」
真剣な眼差しのまま走り切ったハルカの額で、汗が朝陽を受けてきらりと弾けた。
肩で息を整えながら二人を見やると、そこに漂っていたのは妙に噛み合わない空気だった。
シモンがさりげなく一歩前に出て、ハルカとテラノスの間に立つ。
息を落ち着けるハルカ。
楽し気に笑うテラノス。
複雑な表情のシモン。
――夏の朝に似つかわしくない、奇妙なちぐはぐさが漂っていた。




