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アラサー冒険者のaimless odyssey  作者: 久遠堂 鍵介
アラサー冒険者のaimless odyssey -緋影闘奏篇-
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第52話 掃除と紅茶と未来の笑顔

 テラノス邸の朝は、清らかな鐘の音とともに始まった。

 広い廊下に朝陽が差し込み、長い影を落とす。

 ハルカは黒いエプロンの紐を結び直し、きりりと一礼した。


「本日より、どうぞご指導のほどを、よろしくお願いします」


 正面に立つヴァレリオは、燕尾服の胸元を指で軽く整え、静かに頷く。

 桶や布が用意される前に、まずは廊下の掃き掃除が始まった。


 ハルカは手渡された箒を軽く握り、木目の流れに沿って音もなく掃き進めていく。

 一度の掃きで埃は端へと寄せられ、余分な塵も散らからない。

 忍びとして培った身体感覚が、ここでも自然に活きていた。


「……要領が良いですね、ハルカさん」


 背後で見ていたヴァレリオが、わずかに顎を引いて評価を示す。

 その横では、ミーナも箒を両手で抱えるようにして、ゆっくりと床を掃いていた。

 掃き残しがないように、何度も同じ場所を往復しては確かめる。

 確かに丁寧だが、廊下一本にかかる時間は、ハルカの倍以上だ。


「えっと……ここに小さな埃が……あ、こっちも気になる……」


 眉を寄せて真剣に掃き続ける姿は、どん臭さを通り越して微笑ましいほどであった。


「ミーナ、その熱心さは良いですが、廊下は全体を使います。一本の線にこだわりすぎては、先へ進めませんよ」

「は、はいっ……! すみません、気になっちゃって」


 叱責ではなく諭すようなヴァレリオの声に、ミーナは頬を赤らめ、再びゆるりと箒を動かした。

 ハルカはちらりと横目で見やり、思うところがあったが、結局何も言わなかった。




 やがて午前の作業が終わり、次はティータイムの準備に移る。

 ハルカは指示された通り、茶葉の分量を計り、湯を注ぎ、時間を計測してきっちりと紅茶を淹れた。


「出来ました」


 一口飲んだヴァレリオ様が小さく頷く。


「正確無比。悪くはありません」


 その横で、ミーナがのんびりとポットを傾けていた。

 手つきは柔らかく、淹れ終えたカップからふわりと甘い香りが立ち上る。


「どうぞ、ハルカちゃんも」


 差し出された紅茶を口に含むと、驚くほどやわらかな味わいが広がった。

 数字では表せない、ほっと息をつきたくなる温かさがある。


「……とても、美味しいです」


 思わず零れた言葉に、ミーナは嬉しそうに微笑んだ。


「よかった。誰かが一緒に飲んでくれると、不思議と味も変わるよね」


 その笑顔に、ハルカの胸がふっと軽くなった。

 硬く張り詰めていたものが解け、自然と肩の力が抜ける。

(……なんだろう、この笑顔……あたたかい)


 自分にはまだ出来ないこと。

 けれど、ミーナの笑顔が大切なものに違いないと感じた。


 ハルカは湯気の揺蕩うカップを置き、思いきって口角を上げてみせる。

 ぎこちない笑みだったが、ミーナさんは優しく頷いてくれた。


「うん、いい顔してるよ、ハルカちゃん」

「っ……!」


 その言葉に、ハルカの頬が一気に赤く染まる。

 慌てて俯き、両手でカップを抱え直す仕草は、まるで叱られた子供のように初々しい。

 胸の奥に、くすぐったくも温かな想いが芽生える。


 ――いつか、この笑顔をシモン様に届けられるように。

 そう心に誓ったとき、廊下の向こうから軽やかなのに朗々と響く足音が近づいた。

 姿を現したのは、小柄な老人。背は丸く、白い髭を蓄えているが、声の張りは若者にも負けていない。


「ふぉっふぉ。茶の香りがすると思えば、ここで一息ついとったか。よいよい、働きづめでは土も草も拗ねるからのう」


 最初にヴァレリオがすっと立ち上がり、胸元に手を添えて静かに一礼した。

 それに倣ってミーナとハルカも裾をつまみ、深々と頭を垂れる。


「だ、旦那様……!」

「本日よりお世話になります、ハルカと申します。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」

「かたい、かたい。わしは堅苦しいのは性に合わんでな。――ハルカちゃん、ミーナたんのように、もう少し柔らか~くならんとな」


 テラノスはにやにや笑いながら、両手を宙でわしゃわしゃと蠢かせてみせる。


「だ、旦那様っ……! 困りますから!」


 ミーナさんは真っ赤になって胸を押さえた。その姿に旦那様は「ふぉっふぉ」と腹の底から笑い声を響かせる。

 そこでヴァレリオ様が「コホン」と小さく咳払いした。

 咎めぬまでも、節度を促す絶妙な響きである。

 テラノスはそれを面白そうに聞き流し、さらに笑みを深めた。


「ここはの、土も人もよう育つ家じゃ。――ハルカちゃんも、遠慮せず伸び伸びと育つがええ」

「はい! 精進いたします」


 矛先を向けられたハルカは、真剣に答えたつもりだったが、やはりどこか噛み合わない。

 その様子をテラノスは満足そうに眺め、肩を揺らして笑った。


「よろしい。――ミーナ、あとで庭のレモンをひとつもいでおいてくれ。今朝は香りがひときわ良かったわい」

「は、はいっ!」


 そう言って踵を返しかけた旦那様は、ふと振り向いた。


「真面目は立派な長所じゃ。じゃがな、余裕もまた技よ。土と同じく、固めすぎれば根は伸びん。覚えておくんじゃぞ、ハルカちゃん」


 軽い足取りで去っていく小さな背を、三人はそれぞれの思いで見送った。

 豪放で掴みどころのないテラノスの言葉は、不思議とハルカの胸に残り、じんわりと温かさを広げていった。


 こうしてハルカのメイド修行初日が幕を閉じた。

 廊下の掃除も配膳も、他にも覚えることは山ほどある。

 何とか滞りなく務めを果たせた気はするが、所作には余裕がなく、表情も硬いまま。

 自分にはまだ「主を安心させる力」が足りないと痛感させられる一日だった。


 だが一方で、ミーナの笑顔や、テラノスの言葉に触れ、ただ器用にこなすだけでは届かぬものがあると知った。――心を込めて人を和ませること。

 それこそが従者に求められる、本当の力なのだろう。

 まだ輪郭にすぎないかもしれない。

 けれど、目指すべき姿を垣間見られただけでも、良き家に迎え入れてもらえたのだと実感できた。


 夜、帳簿に今日の作業を記しながら、ハルカは小さく拳を握る。

(私は、まだまだ未熟……。けれど、必ず学んでみせる。シモン様のお傍に立つにふさわしい従者となれるように)

 そう心に誓い、ハルカは静かに明かりを落とした。

 修行の日々は、まだ始まったばかりである。

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