第51話 メイドの覚悟と主人の誠意
話は、夏の日に遡る。
忍びの少女――ハルカが、八咫の国からワイアースへ戻ってきた日のことである。
かつて冷徹な影を宿していたその瞳は、今はどこか穏やかな光を帯びていた。
忍びの装束を脱ぎ捨て、代わりに纏っていたのは、藍を基調とした清楚なメイド服。
まるで生まれ変わったかのような鮮やかな転身であり、その姿に場の空気が一瞬ざわめきを失った。
だが、次の瞬間、さらに衝撃が走る。
「――私を、あなたのメイドとして傍に置いていただけませんか」
静寂を破る声。
その言葉が意味するところを理解した途端、冒険者たちは一斉にざわついた。
異国の忍びが、今度は自ら望んで一人の冒険者に仕えると告げたのだ。
驚きと好奇の視線がシモンへと集中する。
しかも、運の悪いことに――。
ちょうどその場へ駆け込んできたジュリアが、その光景を目撃してしまった。
「……どういうことよ、それ!」
彼女は真っ赤な顔で叫び、周囲の視線をものともせずシモンへ詰め寄る。
理屈ではなく、胸の奥からこみ上げたものが言葉となって飛び出した。
ジュリア自身にも理由は分からない。
ただ一つ確かだったのは――その瞬間、シモンの本能が、確かに危険を告げていたということだ。
一触即発の空気。
シモンは思わず外へ逃げ出したが、長くは持たないと悟る。
逃げ切れたとしても問題は先送りにしかならない。
観念した彼は、結局「話し合い」の場を設けることを提案した。
その日の午後。シモン、ジュリア、ハルカ、そして巻き込まれたミーナの四人は、ワイアース市内にあるテラノス・アーデルシアの別宅、通称ジュリア邸を訪れていた。
もとはジュリアが学院に通う際に使う住居を、祖父であるテラノスが貸し出しており、夏季休暇中とあって人の気配も少ない。
騒ぎを鎮めるには、うってつけの場所だった。
だが、そこで思いがけない人物が姿を現す。
「おや……ずいぶん賑やかな顔ぶれだ」
扉を開けて出迎えたのは、アーデルシア家の執事、ヴァレリオ・グランツであった。
盛夏の熱をまるで気に留めず、隙なく着こなした燕尾服風の衣装に、鋭くも落ち着いた眼差し。
その冷静沈着な佇まいは、場を支配していた緊張をいくらか和らげた。
「……渡りに船だな」
シモンは小さく呟く。
公平で経験豊富な彼が同席するならば、少なくとも二人の爆発は抑えられるだろう。
こうして――忍びからメイドへと転身を遂げた少女の「願い」をめぐり、ジュリア邸にて奇妙な話し合いの幕が開かれたのである。
シモンは一度息を整えると、執事に向き直り簡単に事情を説明した。
「執事殿、できればこの話し合いに立ち会ってもらえないだろうか。冷静な貴方に、客観的な立場からの意見をもらいたいのだが」
ヴァレリオはわずかに眉を上げ、すぐに一礼する。
「承知しました。私で良ければ」
その一言で、場に漂っていた重苦しい空気がいくらか落ち着いた。自然と全員が椅子に腰を下ろし、話し合いの場が整う。
着席の流れを見ていたミーナは、緊張に包まれた場を少しでも和ませようと、温かなフルーツティーをそっと配膳した。甘やかな香りがふわりと広がり、皆の心に静かな落ち着きをもたらす。
シモンはミーナの心遣いに感謝し、一口フルーツティーを口にすると、改めて最初から経緯を説明した。
忍びであったハルカが自らメイドを志願したこと、それに対してジュリアが反発したこと――。
「では、順に意見を伺いましょう」
ヴァレリオが取り仕切るように声を発した。
最初に口を開いたのはハルカだった。
「私は……忍びとしての生き方に区切りをつけ、新しい道を選びたいのです。メイドとして、私が自ら“主”と定めたシモン様にお仕えしたい。それが、かつて果たせなかった忠義を今度こそ全うすることに繋がると信じています」
真剣な眼差しと共に語られるその言葉に、場はしんと静まり返った。
続いて、ジュリアが唇を噛みながらも声を張る。
「そんなの……思いつきで決めることじゃないわ! 年頃の娘が、軽々しく主従の契りを結ぶなんておかしい。もっとよく考えるべきよ!」
二人の言葉が交わされると、たちまち熱を帯びてゆく。
視線がぶつかり合い、互いに譲らず、今にも再び火花が散りそうな空気が広がった。
そこでヴァレリオが「こほん」と小さく咳払いする。
「お二人の主張は、こう整理できますな。――ハルカ殿は忠義と新しい生き方を求めている。一方でジュリアお嬢様は、その決断の軽率さを憂えておられる、と」
落ち着いた声音に、二人ははっと我に返ったように姿勢を正す。
「主従の関係とは、元来当事者同士の問題。他者が口をはさむべきではありません。ただし、従者の経験なき者がいきなり仕えるのは、確かに困難が伴うでしょう」
その言葉に、ハルカもジュリアも素直に頷いた。
緊張が解けたところで、ヴァレリオは改めて口を開く。
「ならば、一つ提案がございます。――まず、当事者であるシモン様とハルカさんに依存がないと確認できれば、主従を成立させる。そのうえで、彼女をアーデルシア家でお預かりし、正式なメイド修行を施しましょう」
提案を聞いたシモンは、しばし考え込んだのちにハルカへと視線を向けた。
「……本当に、俺でいいのか」
冒険者という生き方は、明日をも知れぬ不確かなものだ。主従の契りを交わすとは、従者の人生そのものを背負う覚悟を求められる。
しかし、自分にその資格があるのか――シモンは胸中で自問せずにはいられなかった。
思えば思うほど、己は主に相応しくない、と結論へ傾いていく。
だが、その逡巡を遮るように、ハルカは即座に言葉を返した。
「はい。シモン様が良い。シモン様しかいないのです」
迷いのかけらもない瞳。
真っ直ぐに向けられたその眼差しに、シモンは息を呑み、やがて静かに目を細める。
短く吐き出された吐息には、諦めではなく、受け止める決意の色が滲んでいた。
その瞳に応えるべく、せめて誠実であることだけは裏切るまいと、シモンは覚悟を固め、条件を口にした。
「分かった。ただし条件がある。――もし他にやりたいことや進みたい道ができたときは、素直に申告すること。その時は無理に契りに縛られず、そちらを選べ」
「……はい。そのお約束、必ず守ります」
ハルカは椅子から立ち上がると、片膝をつき深く頭を垂れ、真剣に応じた。
こうしてシモンとハルカは主従の契りを交わすこととなり、ハルカは出向扱いでアーデルシア家に身を寄せ、正式なメイド修行を受ける道を歩み始めたのであった。
話し合いは理路整然と進み、円満に幕を下ろした。
だが――ジュリアの胸のうちだけは、晴れ渡らなかった。
納得すべき結末であると頭では分かっていても、感情は別だったのだ。
小さな不満が燻る理由を、彼女自身も説明できない。
ただ一つ確かなのは、それが年頃の娘らしい、行き場のない苛立ちにほかならなかったということだった。




