第50話 平穏と影
ある日の夜、自宅に戻ったシモンは、裏手にある石積みの井戸へと向かった。
滑車を回して汲み上げた木桶の水は、昼間の熱気を忘れさせるほど冷たい。
掌ですくって顔を洗い、首筋を撫でるように伝う水の感触に、火照った体が僅かに和らいでいく。
数杯を喉に流し込み、息をついたときには、頭も目元もすっきりしたように思えた。
だが、それでも拭えないものがあった。
胸の奥か、あるいは腹の底か――そこに、得体の知れぬ澱が沈んでいる。
痛みではない。
ただ、言葉にできぬ何かが、ずっとまとわりついていた。
家の扉を開け、靴を脱いで、ベッドへと身を預ける。
天井を見上げるでもなく、ただその向こう側にある闇を見つめるように、シモンは静かにまぶたを伏せた。
「ペイン・アセンダンツ……」
小さく呟いたその名に、わずかに眉がひそめられる。
あの狂信者を討ち、少女を救った。
それで終わりであれば、どれほど良かったか。
だが、違う。
あの男――ヴァイアン・ヴェルゴは、確かに言っていた。
自らを「導師」と称し、「教団の意志」として動いていたことを。
「“ヴェリタス”様っていってたよな。そいつは……誰だ?」
シモンはベッドの上で、わずかに身を起こし、低く、静かに、そう言い聞かせるように呟いた。
ヴァイアンはジュリアの“魔血”を知っていた。
いや、それを欲していた。
では、教団の狙いは何だ?
単に強い力が欲しかったのか?
それとも、別の目的があるのか?
わからない。
何もかも、わからないままだ。
だが、確かなのは――ヴァイアンを討ったところで終わりではないということ。
むしろ、それは始まりにすぎなかった。
――そういえば、あの日。
ジュリアの無事を確かめ、テラノス邸を辞したあと、シモンは一人、礼拝堂に戻っていた。
何かの手がかりが残っていないか――ペイン・アセンダンツという存在が、ただの個人の狂信では済まされないと感じていたからだ。
だが、そこで目にしたものは、あまりにも静かで、不気味な光景だった。
仮面の信者たちの遺体は、そのまま横たわっていた。異常はなかった。
いや、ただ一つ――ヴァイアン・ヴェルゴの遺体だけが、跡形もなく消えていた。
あの時、自らの手でとどめを刺した。息絶えたことも確認していた。それでも、奴の姿はそこにはなかった。
誰かが運び出したのか。
信者たちの処理はされていなかった。
ならば、隠蔽とは考えにくい。
ではなぜ、ヴァイアンだけを――?
奴らの教義に基づく儀式か、それとも別の意図があるのか。
見当がつかない。
だが、わからないからこそ、不安を煽るには十分だった。
いずれ、また敵が来る。
ジュリアを狙い、周囲を巻き込むだろう。
そのとき、自分に何ができるのか。
今の平穏は、ただの仮初めでしかない。
だからこそ――。
「平和とは、かくも得難き、遠き理想……か」
シモンはベッドの上で、低く、静かに、そう言い聞かせるように呟いた。
今日も、平和だった。
だが、明日もそうである保証は、どこにもない。
背後には、すでに新たな凶刃が迫っているのかもしれない。
「……やらせるかよ」
低く吐き捨てるように言いながら、シモンは目を閉じた。
かつて母を、親父を、喪った時の痛みは、今もこの胸に燻っている。
だからこそ、もう二度と、同じ喪失を味わいたくはなかった。
誰にも告げず、決意を新たにしたシモンは、ゆっくりとベッドに身を預けた。




