第49話 日常への帰還
初夏の風が、訓練場にそよいでいた。
時は、あの事件からおよそ一か月。季節は六月を迎えていた。
テラノス邸の裏手にある、手入れの行き届いた訓練場。
その一角を、ひとりの少女が駆け抜けていく。
――ジュリア・アーデルシア。
誘拐という苦難を乗り越えた少女は、今ふたたび訓練に打ち込んでいた。
だが、以前とは少し違っている。彼女は走りながら、両の掌に小さな魔力球を浮かべていた。火属性を帯びた、赤くゆらめく光の玉。その大きさは均等で、揺らぎもない。
作っては消すのではなく、一定の大きさを保ったまま、維持しながら走り続けている。
かつては、この動作ひとつ取っても苦戦していた。魔力制御に意識が向きすぎて足がもつれたり、球の大きさが暴発寸前まで膨らんだこともある。
だが今は――息を整え、速度も保ったまま、魔力の球を巧みに操っていた。
魔血という存在には、未だに解明されていないことが多い。
分かっているのは、ごくわずかな事実だけだ。
ジュリアに宿ったそれは、文献にも語られないほど希少で、時として暴発の危険すら孕む力だということ。
常識的な魔法と比べても桁違いの威力を秘め、しかもその発動や暴走は感情に左右されやすいという不安定さを伴っていた。
今のところ確実なのは、それくらいだ。
だからこそ今のジュリアは、魔血をどうこうする前に、まず自身の魔力制御を徹底的に鍛えている。
身体を動かしながら、集中を分散させながら、それでも魔力球を安定させる――。
無意識でも扱えるよう、意図的に並列処理を鍛えるための訓練。
それが、今の彼女にできる最善で、最初の一歩だった。
「……だいぶ様になってきたな」
訓練場の端から様子を見ていたシモンが、ぼそりと呟く。
新たなテラノスからの依頼は、ジュリアの「冒険者指導」ではなく、「テラノス・アーデルシアとのアドバイザリー契約」となっていた。
この契約は簡単に言えば「テラノスの私的相談役」であり、テラノスに相談された内容について、シモンがベテラン冒険者としての知見をもって助言するというものだった。
もちろんその中には、ジュリアの指導方法や屋敷のセキュリティー、私兵のトレーニングなど、多岐にわたる内容が含まれている。
これは外部から「魔血」の存在を隠すためであり、ジュリア個人にシモンを宛がうのではなく、テラノスを挟むことでカムフラージュの意味も持たせていた。
また、この契約はシモンにとってもメリットがあった。
当然守秘義務などの制約は存在するが、あくまで相談役という立場であり、求められているとき以外は他の依頼を受けることも可能。
他貴族との交流も、シモンの判断を尊重するという破格のものだった。
契約については、テラノスが「応相談」という形で、ある程度柔軟な対応を確約しており、懸案事項であった魔法指導についても配慮されている。
シモンは「魔法技術や魔法習得そのものは指導できない」と前置きしたが、代わりに真巽流剣術の源流である真氣活殺術の呼吸法や精神修養の鍛錬を応用することで、魔力制御に資する訓練を施すことができた。
テラノスは「お主に出来る内容で構わん」と笑い、ジュリアもまた強がるようにして「アンタでいいわ」と答えた。その顔は挑戦的な笑みを浮かべ、僅かに紅潮していた。
そんな彼女が今、軽やかに駆けている。
魔力球を除けば、ただの爽やかなランニング少女にしか見えないだろう。
「シモンさ~ん!」
明るい声とともに、もう一人の影が駆けてくる。ジュリア付きメイド、ミーナであった。
朝の見回りのついでか、それとも単なる偶然か。駆けてくるたわわな双丘が揺れ、シモンは思わず視線を逸らす。……のだが、つい、ちらりと横目で見返したその瞬間――。
「――こら~っ!」
ジュリアの鋭い声が飛ぶと、手に浮かべていた魔法球が勢いよく飛来した。
「っと!」
反射的に、素振りに使っていた木剣で上空に弾き返すシモン。
魔法球は弾かれて、空中で小さく弾けた。
「どこ見てんのよ、変態! ミーナにいやらしい視線向けたでしょ!」
「見てない。というか、物騒なもの飛ばすな」
「嘘よ! 今、二度見したわよ。私、見てたんだからね」
ジュリアは唇を尖らせて睨みつけ、シモンはミーナの視線に気づかないふりをして、明後日の方向に視線を彷徨わせる。
「ははは、ジュリア君、君は何を言っているんだい?」
「わ、わたしのせいですかー!? ええと、あの……すみません、ジュリアお嬢様っ!」
慌てて狼狽えるミーナは、大きな動作でシモンとジュリアを交互に見やる。
それに合わせてミーナのたわわも左右に揺れ、シモンは見当違いの方向を向きながら、視線だけをそちらに向けた。
するとジュリアは、制限を外した魔法球を練り始める。
「シ~~モ~~ン~~!」
この場に留まるのは危険と判断したシモンは、ジュリアの反対側へと駆け出した。
「逃げるなーっ!」
顔を真っ赤にしたジュリアが、魔法球を携えて追いかけ回す。
訓練場に慌てふためく声と怒声が響き、陽光にきらめく魔法球が、夏の到来を待ちわびた風のなかを飛び交っていた。
こうして賑やかな時間が戻ってきた。
かつての静けさとは違う、心を満たす喧騒。
いつか失われた日常が、こうして形を変えながら戻ってきたのだ。
――誰かの怒鳴り声や、必死な言い訳、笑い声が響く日々。
それは確かに、今の彼らが歩むべき道の上にある風景だった。
シモンはゆっくりと息を吐きながら、心の奥で呟く。
(願わくば、この時間が続きますように)
空に広がる青と、少女の火が、どこまでも眩しかった。




