第48話 旅立ちの風
青空に、白い雲が穏やかに流れていた。
その日、ワイアースの街をひとり去ろうとしている少女がいた。
「もう、大丈夫です。体の調子も、だいぶ良くなりました」
冒険者ギルドの前で、ハルカは静かに一礼した。
黒縁の眼鏡越しに覗く瞳は澄み、肩には軽い荷を背負う。
かつての冷たい影は薄れ、年相応の可憐さがその姿に宿っていた。
目元には、いくらか疲労の色が残っていたが、顔を上げたその立ち姿には、確かな決意が刻まれている。
この日の彼女は、和洋を織り交ぜた装いに身を包んでいた。
薄藍の腰丈羽織に、淡い灰の襦袢風ブラウス。
紺の袴風スカートが風に揺れ、足元の編み靴が軽やかな歩みを支える。
腰にはあずき色の苦無袋が、旅の名残と新たな決意を象徴するように揺れていた。
「戻ったら、どうするんだ?」
シモンの問いに、ハルカは一瞬だけ遠くを見つめた。
その視線の先に故郷はもうない。ただ、想いだけがそこにあった。
「みんなのお墓に報告を。それから……あの苦無を供えようと思います。ようやく、そうしてあげられる日が来たので」
その声は静かで、優しかった。
復讐を遂げた満足よりも、眠れる仲間たちのために――という、誰かを思う心が感じられた。
「その先は?」
「まだ……考えてません。でも、きっと、何か見つかると思います」
答えながら、少し寂しげに笑う。
無意識に、手は苦無袋を優しく撫でていた。
その笑みに、かつて冷徹だった忍びの影はもうない。
人と交わり、人のぬくもりに触れた者の、穏やかな顔だった。
「力になれることがあったら、また相談してくれ。俺にできることがあるかもしれない」
その言葉に、ハルカは一瞬だけ目を見開いた。
だがすぐに穏やかな表情へと戻り、ゆっくりと頷く。
「はい……ありがとう、ございます」
その感謝は、復讐に生きた忍びとしてではなく、ひとりの少女としてのものだった。
誰かの優しさに支えられ、ようやく心を解きほぐされた少女――ハルカとしての。
思い返せば、冒険者ギルドで面倒を見てくれたダンカン。
解毒と手当を施してくれたカリナ。
夜通し看病してくれたエリスとリリー。
お見舞いに来てくれたジュリアとミーナ。
そして――。
「……仇を討ってくれたこと。生きる意味があるって、教えてくれたこと。全部……全部、ありがとうございました」
シモンが無言で手を差し出すと、ハルカはその手をじっと見つめ、ゆっくりと両手で包み込むように握った。
その指先に、名残惜しさが滲んでいた。
まるで離れてしまえば、もう二度と会えないのではないか――そう思うかのように。
しばしのあいだ、彼女はその手を離せずにいた。
それでも、ハルカは笑った。
「行ってきます、シモンさん」
深々と頭を下げる姿は、真っ直ぐで揺るぎなかった。
誰にも縛られず、自分のために生きようとする意志がそこにあった。
そして彼女は、一礼と共に背を向けた。
かつて凍てついていた心に、温かな風が吹き抜けるように――軽やかな歩幅で。
八咫の国。
遠い故郷へと、ハルカは旅立っていった。
風は南――いつか再び、この風向きが変わるまで。
暫しの“Odyssey(旅路)”




