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アラサー冒険者のaimless odyssey  作者: 久遠堂 鍵介
第十章 「許された涙」
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第46話 夜明けとぬくもり

 両手を掲げたヴァイアンの身体は、これから訪れる結末を前に、小刻みに震えていた。

 先ほどまで自分を見下していた相手が、今や無様に地へ沈み、断罪の刃を待つしかない。

 その事実に、男は隠しきれぬ昂揚を滲ませている。


 テルス・バインド《重圧拘束魔法》の超重力により、シモンは地面に手と膝をつき、その首を差し出すような体勢に追い込まれていた。

 顔を上げることもかなわず、俯いたまま視線だけをヴァイアンに向ける。

 その視線に、ヴァイアンは愉悦を含んだ笑みを浮かべた。


 ――ああ、こういう男か。

 シモンは表情を消し、目を細めて悟る。


 この男にとって“痛み”とは、常に与えるものであり、決して受け入れるものではない。

 それが奴のルールなのだろう。

 シモンのように、そのルールを逸脱し、自分の世界を乱す存在は、到底許容できない。

 だからこそ、今この瞬間、勝利を確信した相手に刃を振るうことが、何よりの快楽なのだろう。


 ヴァイアンは天を仰ぎ、陶酔に身を震わせながら、一歩踏み出す。

 そして視線を落とした瞬間、地に伏したままこちらを見据えるシモンと、視線が交錯した。

 歓喜を噛みしめ、万感の思いを胸に、魔法剣が振り下ろされる。


 ――しかし、その瞬間。

 魔法剣は、霧を斬るがごとく、虚無を裂いた。

 確かな手応えはなく、切っ先は床を打ち、魔素だけが淡く霧散する。


 切り裂かれるはずの場所に――シモンの姿は、なかった。

 そこに残されていたのは、最初から何も存在しなかったかのような、空虚な空間だけだった。


「な……っ?」


 声にならない声。

 視界の端にすら残像はなく、そこに“いた”はずの男は、どこにも存在しない。


「……なん……ですの……?」


 震えた声が、空を切る。

 到達するはずだった歓喜も、芸術の頂も、どこにもない。

 胸に残ったのは、説明のつかない空虚さ――いや、異物感だった。


 一拍遅れて鋭い痛みが走り、異物感の正体を知る。

 視線を落とすと、衣の胸元を突き破り、鈍く光る剣の切っ先が覗いている。

 本来広がるはずの赤は、舞台ではなく、自身の胸で咲いていた。


 ――真巽流剣術 おぼろ


 背後から、低く穏やかな声。

 耳朶をかすめるほど近くで、あまりにも静かに。


「期待させたなら、すまなかったな。……俺も、嘘つきなんだ」


 怒りも激情もない。

 ただ、剣を振るう者の、淡々とした声だった。


「……毒が利かない体質でな。でも、いい芝居だったろ?」


 この場にそぐわない軽口。

 胸を貫いた剣はそのままに、鮮血が燃える花弁のように滴り落ちる。

 月光を受けた刃だけが冷たく輝き、ヴァイアンの身体は小刻みに痙攣していた。


 口を開こうとしたが、声は出ない。

 唇からこぼれたのは、言葉ではなく、血の泡だけだった。


「……まだ死んでくれるなよ」


 もはや声を発することすらできない相手に、シモンは淡々と語りかけた。


「わざわざ手間暇かけた理由は二つだ。一つは――単純に、俺の怒りだ。我ながらガキ臭いと思うよ。でもな……この怒りは、本気なんだ」


 返事のないヴァイアンへ、冷えた声で言い放ちながら、シモンはさらに剣を深く突き入れた。


「お前は間もなく死ぬ。それまでの短い時間、痛みを感じながら後悔しろ」


 その怒りは、ジュリアの涙に向けられたものか。

 ハルカの無念に応えたものか。

 それとも、もっと別の何かなのか――。


 やがてシモンは剣を引き抜き、素早く鞘に収めると、腰のベルトに差していた一本の苦無を手に取った。

 それは、連絡手段として使われていた、ハルカの苦無だった。


「もう一つは……あの娘の願いだ。復讐の、本懐」


 そのまま背後から、ゆっくりとヴァイアンの喉元へ苦無を添える。


「討たれろ、ヴァイアン・ヴェルゴ」


 その一言が、最後の引き金となった。


 苦無が一閃。

 真一文字に喉を裂き、鮮血が月光を受けて紅い弧を描く。


 刹那、ヴァイアンの全身がぐらりと揺れ、膝から崩れ落ちた。


「……ぁ……あぁ……」


 何かを言おうとしても、もはや言葉にはならない。


 導師ヴァイアン・ヴェルゴ。

 その狂信も、悪意も、歪んだ快楽も――すべて、月下に散った。


 そして――。

 シモンはヴァイアンの最期を静かに見届けると、ゆっくりと壁際に座り込むハルカのもとへ歩み寄った。

 彼女の前に膝をつき、目線を合わせると、手にした苦無をそっと差し出す。

 まだ毒の影響が残るその身を必死に支えながら、ハルカは震える手でそれを受け取った。


「……あ、ありが……とう……」


 たどたどしくも、確かに伝わる感謝の言葉だった。

 涙に滲む視界のまま、ハルカは夜空を仰ぐ。

 ようやく――涙は、零れ落ちることを許された。


 彼女は崩れ落ちるように、シモンの胸へと頭を預ける。


「……ごめん……なさい……っ……で……でも……ほんの、すこしだけ……」


 その声は震えていた。

 誰に許しを乞うでもなく、胸の奥から零れたひとひらの想いだった。


 家族を失い、主君に捨てられたあの日から始まった復讐の旅路。

 憎しみだけを支えに生き抜いた少女は、やがてこの復讐心すら、時間が癒してしまうのではと恐れていたのだろう。


 今この時、その恐怖から解き放たれ、心の壁をひとつ外して、そっと縋る。

 許されたいのではない。

 許してしまいそうな自分に戸惑うような――そんな弱さにも似た優しさが、嗚咽混じりの細い声となって、シモンの耳元を震わせていた。


 シモンはそれ以上、ハルカの言葉を待たなかった。

 背に添えた手が淡い光が癒す。

 毒も、痛みも、憎しみも。

 そして孤独さえ――静かに溶かしていくかのように。


 空には、満月があった。

 まるで誰かを見届けるかのように。




 東の空はまだ暗い。

 シモンはハルカを背負い、礼拝堂をあとにする。

 毒の影響は幾分和らいだとはいえ、自由の利く状態ではない。

 歩こうとしても足取りは覚束なく、とても支えるだけでは足りなかった。


「ごめんなさい……こんな、余計なお手間までかけてしまって……」


 背中越しの声は弱々しく、それでいて恐縮の色が滲んでいる。


「気にするなよ。俺も役得だしな」


 軽くそう返すと、背後に小さな沈黙。

 やがて、ぴくりと肩が震えた。


「……シモンさんの……えっち」


 耳元にこぼれた小さな抗議に、シモンは肩をすくめる。

 するとハルカは頬を染めたまま、さらに強く抱きついてきた。

 その細い腕に混じる震えは、羞恥だけではなかった。


「あの……さっきの……最後の技、あれは……」

「あれは俺の使っている真巽流の技、《おぼろ》だ。体内のジンで虚像を作り、気配や感情を断つ。実態を隠し、虚像だけを認識させて切り込む……まあ、そういう類の技だ」


 本来なら躊躇なく死角から切り伏せるところだが、今回はとどめに特別なこだわりがあったため、背後を取るに留めた。


「すごく……静かで、流れるようで……綺麗だった」

「思い込みの強い、感情的な奴ほど、この技はかかりやすい」


 シモンは背中に背負ったハルカに、首だけ振り返り微笑む。

 一方ハルカは、一度は取り戻した平静が引っ込み、再び頬を赤らめた。

 そして、視線を伏せたまま、風に誘われるように問いを重ねた。


「……どうして、そんなに強いんですか」


 沈黙。

 数歩の間をおいて、シモンは小さく吐息を漏らす。


「……そうなる必要があった。それだけだ」


 その言葉に説明も誇張もない。

 ただ遠い記憶をなぞるような、静かな痛みだけが宿っていた。


 ハルカはそれ以上、何も言わず、背に預けた頭をそっと寄せる。


 あの日以来、誰かに背負われるなど、なかっただろう。

 復讐を誓ったあの日から、他者を拒み、心を閉ざし、己を冷たい刃と信じ、ただひたすらに研ぎ澄ましてきた。

 そんな彼女だからこそ、シモンは放っておけなかった。


 ハルカは人の情も、愛も知っている。

 知っているからこそ、若くして、過酷な生き方を選んでしまったのだろう。


 背中に伝わる鼓動と、確かな温もりは、生きているという事実を静かに告げていた。

 復讐を終えた彼女が、封じてしまった笑顔や喜びを、これからの人生で取り戻してくれれば――と、思わずにはいられなかった。


 だが、それを自分が教えようなどと、シモンは思わない。

 ハルカが復讐から解き放たれ、悲しみを越え、望む未来へ歩き出してくれれば、それでいい。


 そんなことを思いながら、ハルカを背負い直す。

 いつしか彼女は眠りへと落ち、柔らかな寝息が耳元をくすぐった。

 シモンは声もなく小さく笑うと、再びワイアースへと歩き出した。

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