第45話 虚飾の毒と裁きの剣
怒りに我を忘れたヴァイアンは、充血した瞳を見開き、獣のように地を蹴った。
手にした柄へ力を込めると、魔力が弾け、銀光の刃が実体化する。
魔力を凝縮した半実体の剣――《魔法剣》。
刃は揺らめき、残光の粒子を夜気に散らしながら震えていた。それは魔に干渉し、魔術すら切り裂く力を持つ代物である。
その刃を振るい、ヴァイアンはシモンへと迫った。殺意の塊が、空を裂く。
だが、シモンは動じなかった。
剣を片手で持ちながら身体を捻って受け、切っ先をずらし、力を殺す。
受けるたびに足を運び、呼吸を整えていく。
(鋭く力強い……だが、感情に振り回され、意志がない。研鑽も足りない)
冷静な観察の果てに、シモンの瞳が、わずかに細められた。
次の瞬間、シモンが踏み込み、一転して攻勢へと転じる。
袈裟斬りを下段で受け流し、踏み込みざまに逆袈裟を返す。
たじろぐヴァイアンの右腕を狙って刃を滑らせ、さらに至近へ踏み込み、回転の勢いを乗せて水平斬。
その斬撃がヴァイアンの袖を裂き、皮膚を削った。
鮮血が衣を濡らす。
「くっ……!」
さらに、左脚へ斜めに振り下ろされた一閃が、太ももに浅い傷を刻んだ。
「く、くっ……!」
焦りとともに距離を取ったヴァイアン。
その視線が刹那、シモンの姿を捉え、戦慄する。
明らかに驚愕した表情だったが、シモンはそれに、何の感慨も抱かなかった。
袖に走った裂傷から鮮血が滴り、脚の傷が動きを鈍らせる。
ヴァイアンはシモンの殺気に押され、ジリジリと後退しながら、荒い息を吐いた。
対照的に、シモンは一切の乱れを見せず、冷めた瞳でヴァイアンを見据えている。
「随分と出力の高い、良い魔法剣だな」
シモンが淡々と告げる。
死闘の最中であることを忘れるほど、その声には余裕すら滲んでいた。
「持ち主の技量を、上げてくれないのが難点か?」
「なっ……!」
挑発の言葉に、ヴァイアンの顔がみるみる紅潮する。
唇を噛みしめ、歯の隙間から、獣じみた唸りが漏れた。
「貴様ァ……その口、今すぐ裂いてやるッ!!」
ヴァイアンは紫の瞳を血走らせ、刃を振りかぶり、激情のままに地を蹴った。
上段に構えた刃が空気を切り裂き、脳天目掛けて勢いよく振り下ろされる。
魔法剣の刀身から、銀色の残光が飛沫のように散った。
だが、シモンは半身になってあっさりと躱し、返す刀で肩口に新たな傷を刻む。
傷口を押さえたヴァイアンは、たまらず距離を取ると、憎悪の眼差しを向けた。
シモンは敢えて追撃せず、見下した視線のまま、それを見送る。
「落ち着け……私はペイン・アセンダンツの導師、ヴァイアン・ヴェルゴ。この私が、あんな優男に後れを取るはずがない……!」
低く抑えた声で、ヴァイアンは同じ言葉を繰り返していた。
だが、荒くなった呼吸と、強く噛み締められた口元が、その声音とは裏腹の感情を雄弁に物語っている。
シモンの目には、怒りが収まるどころか、さらに内側から燃え広がっていくように映った。
「よ、よろしい……ならば、こちらも“芸術”を披露しましょう!」
ヴァイアンが指先を広げ、魔力を籠めて術式を走らせる。
足元がぐらりと波打ち、瞬く間に泥へと変じた地面が、シモンの脚を絡め取った。
――マッド・グラスプ《泥沼拘束魔法》。
続けざまに、指が弾かれる。
轟、と風を巻いて砂塵が爆ぜ上がり、瞬く間に辺りを覆った。
濃密な砂嵐が夜を閉ざし、光も影も呑み込んでいく。
――サンド・パルス《砂煙妨害魔法》。
「動けますかぁ? んん、動けないでしょう! 見えますかぁ? ええ、見えませんでしょうねぇ!」
砂嵐の中、ヴァイアンの高笑いが響いた。
だが――。
「……無駄だ」
砂嵐をものともしない、低い声が返る。
次の瞬間、視界の外から、疾風を纏った斬撃が奔った。
――飛燕。
風とともに放たれた斬閃が残光を引き、砂塵を裂いて奔る。
それは真巽流の中距離斬撃技。
剣に纏わせた気を飛ばし、使い手の技量を映す、応用の利く多彩な刃だ。
「くっ……!」
慌てて飛び退くヴァイアン。
刹那、頬をかすめた斬撃が礼拝堂の石壁を縦に裂き、破片が砂煙に混じって降り注いだ。
「ま、まだですのよォ!」
ヴァイアンは地を強く踏み鳴らし、再び術式を走らせた。
――テラ・リフト《地盤形成魔法》。
轟音とともに足元が隆起し、砕けた岩塊がいくつも空中へと弾き上げられる。
ヴァイアンはその瓦礫を足場に、軽やかに飛び移りながら宙へと逃れ、マントを大きく翻す。
仕込まれていた粉状の物質が撒き散らされ、月光を浴びて、無数の粒がきらめきながら降り注いだ。
一見すれば、幻想的な銀の華吹雪。
だが、シモンの脳裏には、ジュリアのリボンが浮かんでいた。
――攫われた現場に残されていた、あの粉末。
どうやら同じ、あるいは同類の毒らしい。
(……やはり、毒か)
わずかに口端を上げたが、すぐに表情を消す。
シモンの眼差しは、すでに宙の敵を射抜いていた。
「飛燕・番」
二連の斬閃が風を裂いて奔り、ヴァイアンへと殺到する。
最初の一閃は辛うじてマントで弾かれるが、二の太刀が肩口を切り裂き、赤い飛沫を散らした。
畳み掛けるように、さらに一手。
「飛燕・返し(ひえん・かえし)!」
通り過ぎた斬撃が空中で弧を描き、死角から逆襲する。
ヴァイアンは、ぎりぎりの身の捻りで直撃を避けたものの、風圧に煽られて体勢を大きく崩した。
「ま、まだァ……!」
必死に高度を稼ごうとするヴァイアンへ、追い詰めるように次の斬撃が迫る。
「――飛燕・風切!」
大上段の構えから振り下ろされた、一際鋭い一閃。
直進する閃刃は風鳴りを轟かせ、テラ・リフトで築いた足場を貫き砕いた。
瓦礫が粉砕され、宙に逃げ場を失ったヴァイアンは、思わず顔を歪める。
「がッ……あ、ああああ……!」
瓦礫が崩れ落ち、足場を失ったヴァイアンの身体が宙に放り出された。
迫り来る地面に、彼は咄嗟に魔力を集中させ、衝撃を和らげながら転がるように着地する。
黒衣は裂け、体勢も乱れていた。
――優雅さも、余裕も、もはや欠片すら残っていない。
ヴァイアンは膝をつき、荒い息を吐きながら、顔を引き攣らせてシモンを見上げた。
「ま、待って……お願い、お待ちになって……!」
その口から飛び出したのは、怒声でも罵倒でもなく――哀願だった。
先ほどまでの高圧的な態度からは、想像もできないほどの、無様な命乞い。
「仕方なかったのです……教団に逆らえなくて……あの娘を攫ったのも、命じられたからで……ねぇ、分かるでしょう?」
這いつくばり、地を掴みながら縋りつく。
顔には哀れが滲み、声は掠れ、もはや虚勢を繕う余裕すらない。
だが、それが単なる時間稼ぎであることを、シモンは見抜いていた。
シモンは言葉を返さない。
ただ剣を手に、一定の足取りで歩を進める。
まるで、裁きの刃そのものが静かに迫るかのように――。
沈黙に耐えきれなくなったヴァイアンは、手をついたまま後ずさり、逃げ出そうと身を翻した。
だが、シモンは素早く腕を振り抜く。
飛燕の斬閃が石床を抉り、左右の逃げ道を容赦なく断ち切った。
ヴァイアンの足は止まり、崩れ落ちた身体から、冷たい汗が頬を伝う。
――だが、その瞬間。
シモンの身体が、ふらりと揺らいだ。
剣先がわずかに下がり、荒い呼吸が漏れる。
その“揺れ”を、ヴァイアンは見逃さなかった。
四つん這いの姿勢から、転がるように駆け出し、必死の形相を脱ぎ捨てて間合いを取る。
「フ、フフ……ようやく、ですわ」
立ち上がったヴァイアンの顔に、先ほどの哀願は影もない。
口元に浮かぶのは歪んだ嗤い。
唇は恍惚に震え、紫の瞳は歓喜に濡れていた。
「気づいていませんでしたか? この空間は、今や私の毒で満たされているのですよ……ふふふ」
マントを大仰に広げ、舞台俳優のような仕草で両腕を掲げる。
――あのテラ・リフトで宙に逃れた際、アース・ヴェノム《粉毒散布》を密かに撒き散らしていたのだ。
なおも無言で歩を進めるシモン。
だが、その歩幅は明らかに鈍っていた。
足取りは重く、動きの切れも、わずかに衰えている。
「嘘つきでごめんなさいねぇ……でも、期待なんて、しちゃいましたか? お・ば・か・さん」
陶酔に濡れた声が夜空に響く。
紫の瞳には、嗜虐と歓喜の光が宿り、つい先ほどまでの焦燥は跡形もない。
「では――攻守交替と、参りましょうかァ!」
ふと、ヴァイアンは自らの頬を、指でなぞった。
そこには未だ、あの少女――ハルカの拳痕が、かすかな熱を宿して残っている。
「……あの娘のように接近されたら、危険。ええ、距離を取らねばなりませんわね」
独白とともに、マントの内側へと手を滑り込ませる。
指先から零れ落ちるように、幾本もの銀のナイフが掌へ収まった。
奇術師さながらの手並みである。
間を置かず、それらは次々と宙へ放たれた。
反応が鈍っているはずのシモン――
だが彼は、迫る刃をすべて弾き返す。
剣閃の残光が空中に弧を描き、飛来するナイフを正確に逸らした。
その一連の動作に、一切の淀みも、無駄もない。
だが、それすら、ヴァイアンの愉悦を深めるだけだった。
「動けば動くほど、毒が巡る……!さぁ、お頑張りなさい!」
高らかな声が夜空に木霊する。
ついに、シモンの膝が地を叩いた。
礼拝堂の石床に鈍い音が響く。
荒く波打つ呼吸。
肩が上下し、剣を支える腕に、わずかな震えが走っていた。
その姿は、まるで毒に蝕まれ、今にも崩れ落ちようとしているかのようで――。
「そろそろ、よろしいでしょうか。――ええ、結構。あなたを“芸術”に仕立てて、差し上げますわ」
勝利を確信したヴァイアンは、恍惚の面持ちで深く息を吸い込み、高らかに詠唱する。
「テルス・バインド《重圧拘束魔法》!」
床が震動し、空気が鉛のように沈む。
シモンを中心に、見えぬ力場が展開し、全身を押し潰すような重圧がのしかかった。
骨が軋み、肺が締め付けられ、立ち上がることすら許されない。
――まるで、見えぬ巨人の両手が、彼を地へ縫いつけているかのようだった。
「さぁ、フィナ~レのお時間ですわ」
ヴァイアンは陶酔の声を上げながら、《魔法剣》を両手で掲げる。
切っ先が静かに宙へ浮かび上がり、月光を浴びて妖しく煌めいた。
狙うは、ただひとつ――シモンの頭上。
その鈍い光は、落下の瞬間を待ちわびるかのように、小刻みに震えている。
そして――
膝をついたままのシモンは、ただ重苦しい沈黙の中で、動かなかった。




