第44話 救済と狂気と託された刃
前庭に群がる仮面の集団を、シモンは迷いなく切り崩していった。
手に握るのは一本の剣と一本のナイフ。
二つの刃はそれぞれ異なる軌道を描き、次々と命を奪う。
斬撃は鋭く、打撃は正確だ。短く息を吐くたび、敵の意識が断ち切られていく。
そこにある殺気は、驚くほど静かだった。
ただ冷徹に、必要な動作を積み重ねているだけ。
――にもかかわらず、その一手ごとに、痛々しいほどの焦りが滲んでいた。
やがて中庭を駆け抜け、礼拝堂の最上部を仰ぎ見た瞬間、シモンの目に異変が映る。
淡い青光を放ちながら浮かび上がる魔法陣の輪郭。
無数の粒子が宙に舞い、夜空へと吸い込まれていく。
――あそこが儀式の舞台だ。ならば、そこにハルカとヴァイアンがいる。
光の中、月明かりに浮かぶ人影が見えた。
黒衣の男が、少女を持ち上げている。
あれがヴァイアンか。
彼は、ぼろぼろになったハルカの首を片手で吊り上げ、抵抗の力すら残されていない身体を、無造作にぶら下げていた。
男は、無慈悲に、無感情に――その手を離した。
「――っ!」
ハルカの黒髪が月光に照らされ、風に舞う。
細い腕が宙を切り、声にならない悲鳴が喉を震わせた。
「――ハルカ!!」
シモンの叫びが、夜を震わせる。
だが、彼の足元はまだ前庭の石畳に縫いとめられたままだ。
遠い。
あまりにも遠い。
伸ばすべき手は、まだ彼女に届かない。
(――間に合え! 間に合わせるんだ!)
現実は無情だった。
落下は止まらず、時間は冷酷に流れ続ける。
――このままでは、届かない。
歯を食いしばり、言葉が口を突いた。
(祈りでもない、願いでもない。俺が――俺がやるんだ)
「ソニック・ステップ《瞬間加速魔法》!」
怒声の詠唱と同時に、彼の身体が爆ぜる。
閃光のごとく走り出したシモンの一歩が空を裂き、駆け上がる風をも追い越した。
疾風の中を駆けるのではない。
シモンは疾風そのものを、置き去りにする。
空気の壁をぶち破り、外壁を蹴って跳躍する。
落下する影へ腕を伸ばし――。
「っ……!」
ほんの一瞬、数寸の差。
シモンは宙でハルカの身体を抱きとめ、そのまま地へ滑り込むように着地した。
胸元に収まったハルカの身体が、かすかに身じろぐ。
シモンは素早くハルカの状態を確かめると、腰の小瓶を抜き取り、封を切った。
淡い青光を帯びる液体――《キュア・ポーション》。解毒薬として、最も即効性のある品だ。
震えるハルカの唇へ瓶を傾ける。
だが、喉は反応せず、液体は口端から零れ落ちていった。
毒に支配された身体では、嚥下の力さえ奪われている。
「……すまんな」
短く告げ、彼は迷いなく瓶を傾けて薬を自らの口へ含んだ。
そして、震える唇にそっと重ね、息とともに薬液を送り込む。
喉がわずかに脈動し、薬が流れ込んでいくのを確かめると、シモンは安堵の息をついた。
「……大丈夫だ。まだ終わりじゃない」
その言葉は、朧げになりかけていた意識の奥に、はっきりと刻まれた。
瞳を開いたハルカは、彼を見上げる。
声は出ない。
だが、その視線には、伝えたい意志が溢れていた。
「……わかってる。――よく頑張ったな」
シモンは静かに笑んだ。
続けて、別の小瓶を取り出す。
今度は淡い緑光を帯びた液体――《ヒール・ポーション》。
解毒によって危機は脱したものの、傷と疲労は依然として全身を苛んでいた。
「もう少しだ。これで持ちこたえてくれ」
細心の注意を払いながら、彼は瓶を唇へ傾ける。
今度は喉がゆっくりと反応し、途切れ途切れながらも液体を飲み下した。
飲み終えたハルカの首筋に手を添えると、乱れていた呼吸が、わずかに整っているのが分かる。
顔色にも、ほんのり血色が戻ってきた。
だが――瞳に再び光は宿っても、身体はなお鉛のように重く、指先さえ動かせない。
命を繋ぎ止めるには十分。
だが、戦場に立つ力は、もはや残っていなかった。
瞳の奥では、今にも涙が溢れそうだった。
だが、それでも必死に堪えている。
それだけで、すべては伝わった。
月明かりに照らされた彼女の頬にそっと手を添え、シモンはもう一度問いかける。
「なあ、ハルカ。……お前の代わりに、俺が討ってもいいか?」
声は低く、静かだった。
答えを紡ぐ力は、彼女には残されていない。
だがハルカは、ゆっくりと――それでも確かに、首を縦に振った。
「……この依頼、請け負おう」
その瞬間、胸の奥で何かが決まった。
彼は彼女の身体を再び抱き上げ、礼拝堂の奥へと歩き出す。
石階段を踏みしめる音が、緊張に包まれた静寂の中でこだました。
やがて辿り着いた最上階。礼拝堂の屋上。
夜空に浮かぶ満月の光に照らされ、一人の男がそこに立っていた。
漆黒のスーツに翅のようなマント。銀糸の装飾が夜の中で妖しく煌めく。
指先からは甘ったるい香が漂い、紫の瞳はどこか焦点を欠いたまま、狂気に濁っている。
ジュリアを攫い、ハルカの仇である男――ヴァイアン。
その妖しい視線が、ゆっくりとシモンを射抜くように向けられた。
「どこのどちら様ですか? ……お客様、ですか?」
声は静かで、妙に柔らかい。まるで接客でもしているかのようだった。
「……ああ、お構いなく。ただの通りすがりの、Dランク冒険者だ。用を済ませたらすぐ帰るさ」
シモンは振り向きざまに言い放つ。
「ほほぅ。ではその“Dランク様”が、なぜ……この私の“芸術”を、邪魔なさるのですか?」
「芸術?」
首を傾げるシモンに、ヴァイアンは恍惚とした表情で続けた。
「えぇ、そうですとも。そこのお馬鹿さんの血で咲かせる真っ赤な大輪。荘厳で、崇高で、そして美しい“祈り”のかたち……それだけが私の心を慰めるのですよ」
ヴァイアンはちらりと、壁にもたれかかっているハルカに視線を送った。
一瞬ではあるが、芝居じみた言葉とは思えない、憎々しい目つきであった。
「なるほど。悪趣味なのは、顔だけじゃないらしいな」
シモンは淡々と告げた。
軽口のようでいて、その声音には冷ややかな刃が潜んでいる。
その一言に、ヴァイアンの顔がぴくりと引きつった。
「ぬぅわんですって~~~~~~ッ!?」
芝居がかった動作で天を仰ぎ、両腕を震わせる。
声は甲高く裏返り、屋上の空気を震わせた。
「あなた……っ、自分の顔が少ぉ~~し整っているからってぇ、調子に乗っているのではありませんかァ!?」
演技がかった仕草。
しかし、その奥で煮えたぎる苛立ちは、隠しきれていない。
「乗ってるつもりはない。ただ――」
シモンの瞳が、細く鋭く光る。
「――あの娘には、借りがあるんでな。悪いが、お前の“芸術ごっこ”に付き合う気はない」
静かに告げられた言葉には、重く沈んだ怒気が込められていた。
ヴァイアンは、ふんと鼻を鳴らした。
「ふん……私に指図できるのは、“ヴェリタス様”だけですのよ?」
(……“ヴェリタス”? 奴らの親玉か?)
心の中で名を反芻し、シモンは慎重に言葉を選ぶ。
「ところで、一つ聞きたい。――ジュリアを攫ったのは、お前だな」
ヴァイアンの唇がゆっくりと歪み、妖しく吊り上がる。
「ええ、もちろんですとも。あの娘の“血”は、我らの儀式において……極めて重要な“生贄”でしたの」
「何のために?」
「決まってますわ、教団のために。崇高なる“ペイン・アセンダンツ”の教義に従って」
指先をひらひらと舞わせ、芝居がかった足取りで踊るように屋上を歩く。
「教団、ね。何をする集まりなんだ?」
「おや、興味がお・あ・り? いいでしょう、少しだけお教えしましょう」
ヴァイアンは、陶酔に酔い痴れたように瞳を細めた。
「我らは、“痛みの先にある真理”を求める者たち。肉体の苦しみ、心の絶望、死の恐怖……それらすべてを超えた者だけが、魂の浄化へと至るのです」
「痛みの先に、真理があると?」
「そう。痛みこそ生の証。苦しみこそ歓び。そして、その礎となる栄誉に、あの娘は選ばれたのですよ?」
「それで、ジュリアが生贄か。……勘弁してくれ」
シモンは、うんざりしたように息を吐き、吐き捨てるように言った。
「それほどまでに価値ある魂であり、“血”なのです。神託にも現れたそうよ。彼女は、必要不可欠な“触媒”」
「はぁ~、そうかい。……悪いが、俺には理解できないな」
ため息混じりの言葉に、ヴァイアンは肩をすくめる。
「まぁ~残念。け・れ・ど、痛みを与えれば――考えも変わるかもしれませんわね?」
「ないな。それに、痛みなら……胸の奥に、いくつも抱えてきた」
「教義も理解できない、痛みも拒絶……じゃあ、死にますかァ?」
くるりと回りながら、嗜虐に染まった目がシモンを射抜く。
「……その前に、ひとつ謝っておきたくてな」
「謝罪……ですって?」
ヴァイアンの眉が、ぴくりと跳ね上がる。
シモンは微笑し、そして言った。
「お前さん達の“生贄”だったジュリアを救い出して、お前の儀式とやらを……台無しにしたのは――お・れ・だ」
一瞬、時が止まった。
次の瞬間、ヴァイアンの顔が引きつり、言葉を失ったように唇がわななく。
「……き、貴様ァ……貴様のせいかァァァァァア!!」
感情が爆発した。芝居がかった所作も忘れ、髪を掻きむしり、喉を裂くように吼える。
「どぉして!? なぜ!? なんのためにィ!? 私の“祈り”がァァァ!!!」
歪んだ叫びが、夜空にこだました――。
次の瞬間、静謐な屋上は戦場へと変わり、剣と狂気が激突する。




