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アラサー冒険者のaimless odyssey  作者: 久遠堂 鍵介
第十章 「許された涙」
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第43話 復讐の代償

 濃霧の帳が屋上を覆い尽くした。

 月も星も閉ざされ、そこにあるのは静寂と、張り詰めた忍びの気配だけ。

 その中心に立つハルカの身体はすでに限界を超え、早鐘のような鼓動を、必死に押し隠していた。


 今の彼女の技量では、不完全な奥義――霧幻結界の負担は明らかに過大だ。

 遠のきかける意識を、辛うじて繋ぎ止めている。

 忍術は魔法とは異なる体系で、魔力を循環して術式に注ぐのではない。生命から生じるジンを削り、思念を現実へと形作っていく。


 過大な力の行使は、生命を削って現象を引きずり出す行為に近い。

 霧幻結界の維持には莫大な精を要する。ハルカの内に蓄えられた精だけでは、到底足りない。


 足りない分は生命力そのものを代償として支払い続けている。

 喉が焼け、耳鳴りが止まず、指先の感覚が薄れていく――それでも術は続いていた。


(……あと少し、あと少しだけ……お願い……)

 額から流れる汗が、あっという間に地面を濡らす。感覚を失いかけた指先と、弛緩しそうな全身。

 細く千切れそうな意識を、ハルカの決死の覚悟と執念が、辛うじて繋ぎ止めていた。


 魔血の顕現を目の当たりにしたヴァイアンは、なおも動揺を拭い切れずにいた。

 畏怖に震えたその瞳に、かつての愉悦は戻らない。


 一方でハルカは、結界の中に気配を溶かし込む。

 呼吸の音すら断ち、静寂無音の霧に身を潜めていた。


 ……

 …………

 ………………


 その沈黙を破ったのは、ハルカの殺気だった。

 ヴァイアンは背後から忍び寄る気配に、反射的に反応する。

 懐から柄を抜き放ち、魔力を通す。

 無形の刃が一瞬にして実体化し、背後を切り裂いた。

 だが、斬られたはずのハルカの身体は、霧と化して消え失せる。


 ――忍術・水鏡分身。

 次の瞬間、頭上から、そして正面から、二つの影が同時に躍り出た。慌てて刃を振るうヴァイアン。

 しかし、そのどちらも霧散する分身であった。


「クソっ! どこだ、クソ女っ!!」


 いつもの余裕は完全に消え去り、粗暴な口調で苛立ちを撒き散らす。

 結界の霧に潜むハルカの本体は、口の端から血を滲ませていた。

 全身が痺れ、呼吸もままならず、手足に力は入らない。

 小さく痙攣しながらも、なお最後の一撃に、すべてを賭けていた。


 ハルカは静かに踏み出し、音もなくヴァイアンに迫る。


「お姉ちゃん……お祖父ちゃん……里のみんな……仇、討つよ……」


 隙だらけのヴァイアンに向け、忍刀を振り上げ、駆けだした刹那。


 胸の奥で大きく鼓動が跳ね上がる。

 視界が歪み、前のめりに倒れ込むハルカ。


「……え?」


 霧が晴れ、結界が崩壊した。


 ヴァイアンは、狂ったように嘲笑を響かせる。


「ふふっ……あははははっ! ようやく、かぁ……愚かだなぁ……! 自分から死に急いで……あぁ、ぞくぞくするぅ……!」


(……どうして? なんで……?)

 最後の一振りまでは動けるはずだったのに、なぜ急に身体の自由が失われたのか。

 悔しさと戸惑いで、頭がどうにかなりそうだった。


「どうしたのですか? 忍者気取りでありながら、私の鱗粉毒に気づかなかったのですかぁ?」


(毒!?……ど、どおりで、呼吸と……痺れが……くっ……情け……ない)

 幼いころから忍びとしての訓練を受け、毒への心得も叩き込まれていた。

 普段であれば、肌に触れたとき、吸い込んだときの微かな違和感で見抜けたはずなのに――それすら察せぬほど復讐に囚われていた。

 憎悪に焼かれ、教えを手放した自分が、ただただ情けなかった。


 嘲笑を交えながらも、ヴァイアンの声にはまだ震えが残っていた。

 勝ちを確信し、再び嗜虐的な口調を取り戻しつつも、完全には安定していない。


「懐を取らせていたのは……わざと、ですよぉ。そうでなければ……お前……あなたごときが、近寄れるわけ……ないじゃないですかぁ~」


 言葉とは裏腹に、まだ昂ぶった息遣いが混じっている。

 ハルカが虫の息であることを確信すると、その足が倒れ伏した身体を無造作に蹴りつけた。

 焦らされた苛立ちを晴らすように、何度も、何度も。

 急所をかばう力すらなく、少女の身体は蹴られるままに転がる。


 反応の鈍くなったハルカを一瞥し、ようやく溜飲を下げたヴァイアンは、仰向けに倒れたハルカの顔へ身を屈めた。

 唇をいやらしく歪め、囁く。


「さぁ……無様に命乞いをしてごらん。そうすれば、少しは楽しませてあげる……」


 返答はなかった。ただ、血の滲む唇がわずかに震える。


 次の瞬間、ハルカはその口から、自決のために含んでいた丸薬を、勢いよく吐き出した。

 至近距離で浴びたヴァイアンが思わずのけぞる――その隙。

 全身の残された力を振り絞り、動かないはずの身体を無理やり動かす。

 ハルカの拳が、ヴァイアンの顔面に叩き込まれた。

 無様な命乞いではおろか、この後訪れるであろう惨い死を受け入れてなお、復讐の一撃に自身を捧げた。


 一瞬、何が起きたか理解できなかったヴァイアンは、ジンジンと痛む鼻に手をやる。

 鮮血が指を汚す。

 それを見てようやく殴られたことを自覚し、怒りに震え、見る見るうちに紅潮してゆく。


 最後の力を使い果たしたハルカは、怒りに染まるヴァイアンを目に、声を出すこともできない。

 ただ、口の端を力なく歪めた。

 それは恐らく、笑ったのだろう。

 それが、彼女にとっての最後の反撃だった。


「貴様ぁ、ふざけた真似をしやがって!」


 不快そうに歪むヴァイアンの口元。

 次の瞬間、ハルカの首を掴み上げる。

 細い首に指がめり込み、ギリギリと絞め上げられる。ハルカの顔色は、みるみる蒼白に変わっていった。

 気持ちとは裏腹に、何の抵抗もできず、苦悶の表情を浮かべるだけだった。


「弱者は踏みにじられ、醜く命乞いしろよ!! 哀れに懇願してみろよ! ああぁ?」


 芝居がかった仮面は剥がれ落ち、粗暴な本性を隠そうともせず、動けないハルカを恫喝していた。


「っは、ぐ……く……うぁ……っ、ま、だ……!」


 言葉にならず、呻くだけのハルカを睨みつけるヴァイアン。

 しかし、ハルカの執念は、矜持は、屈することを選ばない。


「……くっ……くたば……れ……」


 か細くも、小さい声。

 だが、恨みのこもった意志の声だ。


 それを聞いたヴァイアンは、心底つまらなそうに息を吐いた。

 片手で首を吊ったまま屋上の端まで歩き、ハルカの身を屋上の外側へ出すと……。


 ――その手を放した。


「だったら死ねよ。クソ女」


 ハルカの身体は虚空へと投げ出された。


 ――届かなかった。

 刃も、誓いも、今の私では届かなかった。


 憎悪の刃は敵に届かず、ただ無念と屈辱だけを胸に残す。

 ヴァイアンとの距離は、あまりに遠かった。

 憎しみも、誓いも、いまの私では――この身一つでは、届かない。


 悔しさが胸を焼く。

 だが、歯を食いしばっても、身体は何も応えてくれない。


(ごめんなさい、お祖父ちゃん……みんな……)

 教えを守れなかった。力を尽くしたけれど、届かなかった。


(お姉ちゃん……わたし、仇を取れなかった……悔しいよ……)

 毒に蝕まれた身体は、もはや空に舞う羽根のように頼りなく、風に翻弄されたまま落ちていく。

 視界の端に、屋上の祭壇が遠ざかる。


(ここまで生き延びてきたのに……あの日から、生き恥を晒して、それでも、耐えてきたのに……)

 満月が、遠くで静かにこちらを見下ろし、離れていく。

 それは姉への誓いが遠ざかるように――永遠に辿り着けない絶望感が、ハルカを支配した。

 夜空が遠のき、風の唸りだけが耳元で続く。


 声にならない叫びが胸を突き破る。

 悔しさと無念が熱に変わり、涙になろうとする――だが、彼女はそれを拒んだ。


 けれど、哀しいかな。

 ハルカの身体は落下を免れる術を持たず、刻々と地面が迫ってくる。

 それは死がハルカを手繰り寄せているようだった。


(ここで終わるなんて、そんなの……)

 ハルカの身体は、抗うことを許されず、死という終着点へと落ちていく――。


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