プロローグ 「シルクの白、レースの黒」
ワイアース魔法学院の講堂は、厳粛な静けさに包まれていた。
天井高く掲げられた魔工灯が柔らかな光を落とし、磨き上げられた床や壁面の装飾紋様を静かに照らし出している。
客席には、エイル王国の魔法界を代表する重鎮たちが居並んでいた。
高位の宮廷魔法士。
各学院の院長。
研究機関の長。
いずれも、王国の魔法発展を支えてきた名だたる人物ばかりである。
さらに、その背後には数多くの貴族たちが列席していた。
自家の後継者や有望な学生の発表を見届けるため。
あるいは、次代の才能を見定めるため。
彼らの視線は一様に壇上へと向けられ、軽い雑談さえ控えられている。
発表が終わるたび、静かな感嘆の声が上がった。
派手な拍手ではない。
評価する者たちによる、抑制された称賛。
そこにあるのは娯楽としての盛り上がりではなく、純粋に学術的成果を見極める厳格な空気だった。
ここは、若き才能が試される場。
同時に、王国の未来を担う可能性が選別される場でもある。
その重圧は、講堂全体に満ちていた。
壇上に立つ者は皆、この視線の重さを否応なく受け止めなければならない。
そして――その舞台袖で、一人の少女は胸の奥から込み上げる高揚を必死に抑えていた。
今か、今かと、自分の名が呼ばれる瞬間を待ち続ける。
――ついに、この日が来たのだ。
エイル王国の国立魔法学院は、各主要都市に設立されている。
その学院では毎年、在籍する学生による研究発表が行われており、会場は持ち回りで決定される慣例となっていた。
各学院の優秀な生徒が独自の研究を披露し、魔法発展に寄与する場。
それは、単なる学内行事ではない。
王国の魔法工学が他国に対して優位を保つ今、若き才能の自由な発想は、新たな可能性として重要視されている。
ゆえにこの発表会は、国にとっても、各家にとっても、そして何より本人にとっても――重大な意味を持つ場であった。
今年の会場は、学術都市ワイアース。
そしてワイアースでの開催ということで、特別推薦枠として王立貴学院初等科に在籍する少女が選ばれていた。
魔法学院が主催する発表会で、他校の、しかも初等科の生徒が推薦されるのは異例中の異例だった。
だが、それだけ少女の天才性は抜きんでていた。
少女はその評価を疑ったことがない。
いや、疑う理由すら存在しなかった。
だからこそ、胸は弾む。
壇上に立ち、自らの実力を示す。
ただ、それだけのはずだった。
やがて、呼び声が響く。
少女の名が告げられた。
軽やかに。
そして、誇らしく。
少女は壇上へと歩み出る。
多くの賓客。
関係者。
学院の教師たち。
その視線が、一斉に集まる。
少女は、それらすべてを当然のものとして受け止めた。
静かに目を閉じ、魔力を集中させる。
――いつもどおりに。
だが。
……集まらない。
魔力の感触が、どこか遠い。
集中しようとすればするほど、指先から零れ落ちていくような感覚があった。
静寂が、長く続く。
やがて、その沈黙はざわめきへと変わった。
どよめきが広がる。
少女の耳にも、はっきりと届いてしまう。
(落ち着いて……落ち着きなさい……)
自分に言い聞かせる。
けれど、焦りが胸を締め付ける。
ようやく、掌に僅かな魔力が集まった。
だがそれすら、次の瞬間には霧散してしまう。
小さな溜め息が、どこからか漏れた。
それに続くように、失笑が混じる。
呆れたような視線。
やれやれ、と言わんばかりの顔。
子供を軽んじる、大人たちの目。
少女は壇上に一人、立ち尽くす。
嘲笑の声と視線が、一身に降り注いだ。
どうしていいのか分からない。
足が動かない。
声も出ない。
両手で耳を塞ぐ。
ぎゅっと目を閉じる。
――やめて。
――やめて。
――私を笑わないで。
――私を見ないで!
「いやぁぁぁぁ!」
少女は、自分の叫び声で目を覚ました。
勢いよく身体を起こし、荒い呼吸を繰り返す。
見慣れた天井。
見慣れた寝室。
夢だ。
そう理解した瞬間、全身から力が抜けた。
もう何年も前の出来事なのに、定期的に見てしまう悪夢。
いまさら忘れられるとは思わない。
それでも、こんなにも動揺している自分に呆れてしまう。
深く、長い安堵の息を吐く。
と、そのとき。
控えめなノックが、扉越しに響いた。
「お嬢様、いかがなさいましたか?」
メイドが、静かに入室してくる。
心配そうな表情を浮かべていた。
「……何でもないわ」
少女は短く答え、額の汗を拭う。
寝汗が不快だった。
「汗をかいたわ。シャワーの準備をして」
「……かしこまりました」
メイドは一礼する。
だが、懸念を拭いきれない様子だった。
それでも命に従い、静かに部屋を後にする。
少女はそのまま浴室へ向かった。
既に、着替えは用意されている。
浴室の前でメイドが待機していたが、少女は首を横に振った。
「必要になったら呼ぶわ。一人にして」
「……承知いたしました」
メイドが下がるのを確認し、少女は浴室の扉を閉める。
十月も終わりに差し掛かり、早朝の空気は肌寒い。
だが少女は、湯ではなく――冷たい水を選んだ。
勢いよく降り注ぐ冷水が、肌を鋭く刺す。
その刺激が、否応なく意識を覚醒させる。
夢の中で感じた嫌な気分が、少しだけ洗い流されていく気がした。
手早く汗を流し、少女は浴室を後にする。
脱衣室で、用意されていたタオルで身体を拭いた。
傍らには、下着が整然と並べられている。
純白で簡素な意匠。
けれど、極上のシルクにさりげない装飾が施された、一目で高級品と分かるものだった。
少女はそれを一瞥する。
その白さは、無垢で清廉な印象を抱かせた。
今の自分には、ふさわしくない。
少女は自嘲気味に笑う。
結局、その下着を手に取ることはなかった。
クローゼットを開け、黒いレースの下着を取り出す。
迷いなくそれを身に着け、ローブを羽織った。
朝の準備を整えようと、メイドを呼ぼうとしたとき――。
姿見が、ふと目に入った。
そこに映っていたのは、ノーメイクの自分。
飾りも偽りもない、ありのままの顔。
「あの頃」の面影を残した、本当の自分。
一瞬、喉が詰まる。
心臓が大きく跳ね上がった。
恐る恐る、鏡の中の自分を見つめようとする。
だが、視線が合った瞬間――反射的に目を逸らしてしまった。
少女は小さく溜め息をつく。
そして、努めて明るい声を作った。
「……来て」
メイドを呼ぶ。
少女は、返事をしたメイドが来るまでの短い時間、今日は何をしようかと考えた。
なるべく楽しくて、本気にならなくて済む生き方を。
一生懸命にならない生き方を、一生懸命考えた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ここから第三篇が始動です。
過去の失敗に囚われ、「本気にならない生き方」を選ぼうとする少女。
そんな彼女の姿や、最後の「一生懸命にならない生き方を、一生懸命考えた」という一文をどう感じましたか?
少女への第一印象や気になったところがあれば、ぜひコメントで教えてください。
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