エピローグ 「厳冬への備え」
秋風が過ぎゆく気配を残し、訓練場のざわめきがゆるやかにほどけていく。
模擬試合を終えたばかりの少女二人――ジュリアとハルカが互いに息を整えるその光景を、シモンは少し離れた位置から静かに見守っていた。
砂を踏みしめる足音、歓声を噛み殺したような私兵たちのざわつき。
その中でシモンは腕を組み、穏やかな視線を二人へ向ける。
(……成長したな)
胸の奥で、誰に聞かせるわけでもなく呟く。
手加減のない応酬も、倒れぬ心も、あの危うげだった日々からは想像もつかなかった成長だ。
しかし、シモンは口を開くことなく、ただ距離を置き、その姿を見守るだけだった。
そのとき、訓練場の端から小走りに近づく足音があった。
テラノス邸のメイドが息を整えながら深く頭を下げる。
「シモン様、テラノス様がお呼びでございます。……執務室へお越しください」
シモンは軽く片眉を上げた。
訓練場のざわめきとは裏腹に、ある種の緊張感が背筋を正す。
「……分かった」
柔らかな声音で返し、二人へ声をかけることなく訓練場を後にした。
テラノス邸の廊下は、午前の日差しを受けて静謐に輝いていた。
その奥、執務室の扉前にはヴァレリオが直立し、深く一礼して迎える。
「お待ちしておりました、シモン様。……どうぞ」
いつも変わらぬ無表情――だがその無表情に潜む緊張が、扉の向こうにある“重い話”を雄弁に語っていた。
執務室へ入ると、テラノス・アーデルシアが手を組んだまま机越しに待っていた。
いつもの快活な瞳は影を潜め、どこか決意と不安を入り混ぜて揺れている。
「この前の話なんじゃが……」
「ああ。決めたよ。一度、会ってみようと思う」
シモンは応接ソファへ腰を下ろし、軽く頷いた。
テラノスは眉を寄せ、かすかに呻く。
「話を持ち掛けておいてなんじゃが……本当に、良いのかの……?」
シモンは視線を伏せ、ひとつ深く呼吸した。
脳裏を過ぎるのは――
黒色の野獣に対峙し、獰猛な一撃に晒されたジュリアの姿。
傷つき倒れても、それでも立ち向かったハルカの背中。
そして、彼女たちが命を懸けて越えた“壁”の高さと、得られた成長と表裏一体に存在した死の気配。
成長には壁がいる。
だが命を奪う壁など、許容できないし、する気もない。
ならば、自らが壁になる――障害を作るしかない。
「儂としては助かるんじゃが……ジュリアがなんと言うかのぅ」
テラノスの声音には、祖父としての迷いが滲んでいた。
シモンは苦く笑い、肩をすくめる。
ハルカなら非情に徹する事は出来るだろう。
だが、心根の優しい彼女が、私情を殺し、友に非情な態度で接する状況を課すことはしたくない。
だったら何も知らないほうが良い。
「すまんが、ジュリアやハルカには秘密にしてくれ。……執事殿も」
ヴァレリオは静かに目を伏せた。
「それは構いませんが……それこそジュリア様が、なんと思われるか」
「ジュリアなら大丈夫さ」
淡く言いながらも、胸の奥では“裏切りに見える”不安が鈍く疼く。
だが口には出さない。
これは、彼女たちを生かすための決断なのだ。
「どうした、爺さんらしくないな」
シモンの軽口に、テラノスはわずかに肩を震わせる。
「シモン……それじゃと、お前さんだけが悪く思われんかの?」
「構わないとは言わないが……それで安全が担保できるなら安いものさ」
真っ直ぐな声音で続ける。
「信じてやれよ。ジュリアは、あんたの自慢の孫娘で、俺の教え子だ。今回のことも、必ず糧にしてくれるさ」
テラノスはしばらく沈黙し――やがて大きく息を吐いた。
「あい分かった。シモン、お主に任せる。……よろしく頼むぞ」
「……ああ」
短く、力強く答えたシモンは、静かにソファから立ち上がった。
執務室の扉へ向かい、手をかける。
そして振り返り、ほんの少しだけ悪戯めいた笑みを浮かべた。
「――ちょっくら悪者になってくる」
テラノスもヴァレリオも、その背を黙して見送った。
扉が静かに閉まる音だけが、静謐な執務室に落ちた。
季節は、まもなく冬を迎える。
今年の冬は、いかなる色を帯びるのだろうか。
シモンの周囲に訪れるのは、穏やかな冬とは限らない。
不穏で厳しい寒気を、避けることはできないかもしれない。
ならばこそ――備えるべきことを、備えられるうちに整えておくしかない。
シモンは、静かにそう思わずにはいられなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
これにて第二篇が完結です。
成長したジュリアとハルカを前に、今度は自ら“壁”となることを選んだシモン。
「――ちょっくら悪者になってくる」という彼の決断を、皆さまはどう思いましたか?
第二篇で印象に残った場面やキャラクターがあれば、ぜひコメントで教えてください。
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