第97話 決意の天秤
決意を固めた瞬間、胸の奥で何かが「カチリ」と音を立てて噛み合った気がした。
教え子に危険が及ぶ可能性がある以上、戯れに付き合うつもりはない――シモンは静かにそう定める。
足元の土をひと踏みし、肺に冷えた夜気を満たすと、短く息を吐いた。
「――ソニック・ステップ《瞬間加速魔法》」
ささやくような詠唱と同時に、世界が一瞬、色を失った。
視界の端で木々が線となり、足裏と地面の摩擦が消える。
自分の身体だけが、風より速く前へと打ち出されていた。
踏み出した足が土を捉えるより早く、白影の黒装束が目前へ迫った。
懐へ飛び込むまでの距離は、ほとんど「ゼロ」へと圧縮される。
(――殺す)
白影の忍刀が反射的に跳ねた気配を、感覚で捉える。
首を狙った一閃は紙一重で躱された――だが、完全には逃がさない。
刃が、白影の首筋から耳殻の付け根を切り裂いた。
黒布の隙間から白い肌がのぞき、そこへ紅い線が走る。
遅れて、温い血が弾け、夜気に鉄の匂いが混ざった。
「……っ」
白影の表情が苦痛に歪む。
歯噛みする音さえ聞こえた気がしたが、シモンは一切の興味を示さなかった。
移動の気配、体重の乗せ方、足の置き場――態勢が整っていないことだけを冷静に観察する。
(……仕留める!)
シモンは剣をくるりと翻し、踏み込みと同時に呼吸を切り替えた。
「――《桜颪》」
地を蹴った瞬間、上体がわずかに後ろへ引かれ、次の瞬間――春の花嵐の如く、幾重もの斬撃が白影へと押し寄せた。
乱撃でありながら、刃は全て急所だけを狙っていた。
喉、こめかみ、鎖骨、腋の下、手首、股関節――
舞うように軽やかな足裁きと、流麗な剣筋。
だが、その一撃一撃には、標的を殺すためだけに研ぎ澄まされた殺意が宿っていた。
白影の忍刀が、火花を散らしながらそれを受け止める。
受け損ねれば、即死。
受け止めても、衝撃だけで骨や筋が悲鳴を上げる。
白影とすれば守るしかない。
だが守れば守るほど足が止まり、逃げ場は削られ、確実に追い込まれていく。
呼吸が乱れ、白影の肩が上下に揺れ始める。
シモンの剣圧に押され、徐々に防ぎきれなくなってきた。
(急所だけを守り切るつもりか……ならば!)
桜が吹き下ろすような連撃を一つ打ち切り、シモンはすっと身を引いた。
白影は命からがら、後方へ跳ぶ。
地面を蹴り、転がるように着地した。
黒装束のあちこちが裂け、露出した肌には細かい切り傷がいく筋も走っている。
袖口からは赤がじわりと滲み出し、指先まで染めようとしていた。
それでもまだ、生きている。
まだ意識は落ちていない。
シモンは一歩だけ前へ出て、剣を八相の構えに据えた。
逃すつもりはさらさらない。
「撃ち貫く」
低くつぶやいた瞬間、白影の足が動き出す気配が走る。
その予兆を逃さず、シモンは刀身へ意識を集中させた。
丹田から立ち上る精を、細く、鋭く、ただ一点へと絞り込んでいく。
左足を前へ送り、右肩の高さで剣を引いたまま、精を刃へと通す。
体内を巡る精が刀身へ流れ込み、シモンは剣とひとつに溶け合った。
次の瞬間、彼はふっと力を抜くように上段をほどき、左手だけを白影へ向けて差し出した。
右手の剣は肩口から倒れるように傾き、切っ先が白影の心臓を捉えたままぴたりと止まる。
刃は立たず、剣は“寝かせた”姿勢へと変わり、攻撃の気配は完全に消えていた。
だがシモンの足元には、踏み込みのための重心が深く沈んでいる。
右手は微動だにせず、刀身は放たれる矢のように静止し、限界まで鋭さを尖らせていった。
「――《飛燕・穿牙》」
言葉と同時に、待ちわびた一瞬が訪れる。
凝縮した殺気が閃光のように爆ぜ、寝かせていた剣が地を滑る燕のように加速した。
風切り音すら遅れて追いかけるほどの速度で、一直線の軌跡が白影へ伸びる。
その一点を穿つためだけに放たれた――《飛燕・穿牙》。
剣先から放たれたのは、貫手ほどの細い閃光。
燕が地面すれすれを掠め飛ぶような高速の軌跡が、白影の心臓を目掛けて飛び立った。
「っ――が、ぁ……!」
鈍い音がして、白影の身体が反り返った。
僅かに体をひねり、心臓だけは守った形だ。
左肩の布地が内側から弾け飛び、血が噴き上がる。
閃光は肉だけでなく、肩の関節をも穿ち、貫通していった。
白影の左腕が、糸の切れた操り人形のように力を失う。
武器を握る右手はかろうじて生きているが――もはや攻めの選択肢は少ない。
(左肩。これで、踏み込んでの強打も封じた。だが、手は緩めない)
シモンは淡々と状況を整理する。
猶予は僅かに残されている。
だが、それが長くは続かないことも分かっていた――
血を押さえる暇もなく、白影は背後の木々へと身を滑らせた。
幹と幹の死角を縫い、闇に溶けるように姿を隠す。
土の匂いと樹皮のささくれの気配が、彼の気配と混ざり合い、認識しがたくなる。
追う側の目をごまかすには、悪くない退路――だが、相手が悪かった。
(それで隠れたつもりか――)
シモンは片眉をわずかに動かしただけで、すぐに感情を消した。
剣を横一文字に振る。
風が鳴り、飛ぶ斬撃が放たれる。
白影の姿が見えない、まさにその空間へ向けて。
「――《飛燕・返し(かえし)》」
放たれた斬撃は、虚空へと一直線に飛翔した。
木立ちの奥へと抜けるかに見えたその瞬間、斬撃の軌道が、ありえない角度で折れ曲がる。
直角を描いて反転した斬撃は、まるで吸い込まれるように白影を捉えた。
「っ――ぐぅぅっ――」
声が終わるより早く、肉を裂く音が響いた。
木の陰から吹き出すように、紅い筋が夜気へと散る。
気まぐれな燕は、白影の脇腹を斜めに切り裂いていた。
黒装束が深く裂け、その下の肌が、冷たい空気と血で濡れる。
白影は片膝を折り、それでも倒れまいと地面に手を突く。
指先が土を抉り、爪の間に砂が入り込む。呼吸は荒い。
だが忍びの矜持か、双眸はシモンを捉えて離さない。
不完全ながらも無表情を保ったままだ。
(流石忍者。しぶとい)
それでも……とシモンは思う。
ここまで削られてなお、まだ完全には崩れていない。
この忍者は、やはり脅威として計算しておくべき存在だ。
だからこそ――ここで、落とす。
躊躇う気持ちは一切ない。
音を殺し、無駄なく距離を詰めた。
白影が動こうとした瞬間、シモンは既に目の前にいた。
振り上げた剣は、殺意を包み隠そうともしない。
刃は首筋から胸骨へと到達する軌道を描いていた。
迷いはない。
ここでこの男を殺す。
それだけだ。
――その時だった。
地面が、低く唸った。
重い何かが土を蹴る振動が、足裏から脊髄へと駆け上がってくる。
「うがぁぁぁぁぁぁ!!!」
咆哮が、空気を震わせた。
さっきまで地面に転がっていたはずのダムドが、巨体を揺らして突進してくる。
胸に深い傷を負いながらも、両腕だけは頭部を庇うように固く組み合わせ、真正面からシモンへとぶつかってきた。
(……もう動けるのか)
シモンは剣の軌道を、咄嗟に変えた。
振り下ろしていた刃を、ダムドの突進の中心へと叩きつける。
ダムドのリストガードが砕け、重い破砕音が鳴り響いた。
衝撃を受け止めたダムドは横へと弾き飛ばされた。
同時に、衝撃を逃がすために、シモンも後方へ飛び退いた。
土を滑るように着地しながら、舌打ちを漏らした。
「チッ……時間切れか」
目の前で転がるダムドの胸はまだ上下を繰り返し、塞がりかけていた傷が再び開き始めていた。
完全に仕留め損ねた。
白影も、重症こそ負わせたが、まだ死んではいない。
しかし、だからといって取り乱す理由にはならない。
思い描いていた「決着の形」からは、わずかに外れたに過ぎない。
シモンはすぐさま目的を再設定した。
(一人が二人になったなら――)
視線が、ダムドと白影の間を素早く往復する。
(――まとめて殺るだけだ)
戦意は、いや……殺意は、少しも衰えていなかった。
むしろ、消費した時間の分だけ、冷たさが増している。
白影が、ふらつきながら立ち上がる。
忍装束の隙間から覗く肌は、もはや血と土で汚れきっていた。
首から耳にかけての傷は乾ききらず、鮮やかな血の滴が顎を伝って落ち続けている。
左肩は《飛燕・穿牙》に貫かれ、関節の周囲が不自然に膨らみ、腫れ上がっていた。
脇腹の傷は深く、裂け目から破れた布の向こうに、白い肌と赤黒い血が入り混じった色が覗いている。
動くたびに、その切り口がわずかに開閉し、血がにじむ。
それでも、白影の瞳の奥には、まだ消えぬ光が宿っていた。
「……退くぞ」
押し殺した声で、そう告げる。
隣で息を荒げているダムドが、体を起こし、胸の傷を気にしながら白影を見やった。
「……良いのかよ」
まだやれる、と言いたげな顔だ。
白影は、シモンから目を離さぬまま、小さく頷いた。
ダムドと白影が、じりじりと後退を始める。
焦りの気配など欠片も見せない。
慎重でありながら、堂々とした退き方だったが――シモンにとっては、敵が距離を取ろうとしているという事実だけで十分だ。
「……逃げられると思っているのか?」
底冷えするような声が、夜の森に落ちた。
白影の口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
血で汚れた唇が、僅かに吊り上がった。
「我らが二人だけだと思うのか?」
シモンは目を細めた。
(……はったりだ)
理屈では、そう結論づけられる。
だが同時に、別の計算も頭の中で進んでいた。
(はったり――だが、賭ける価値はない)
ここでなお追撃し、もし本当に「二人以外」が潜んでいたとしたら? ジュリアたちを付け狙う別の敵がいたら?
自分一人なら、どうとでもなる。
多少の傷を負おうが、押し通すことは出来る。
だが――ジュリアとハルカは……。
シモンは、静かに優先順位を確認した。
目の前の二人をここで仕留めること。
教え子たちを、確実に守ること。
天秤にかけるまでもない。
殺意をいったん、胸に納める。
代わりに、冷たい計算だけを残した。
張り詰めた空気の中、両者の間の距離が、少しずつ、しかし着実に開いていく。
やがて、白影たちの気配が、闇の中へと溶けていった。
シモンは、最後まで追わなかった。
追い払っただけだ――そんな生温い言葉は、自分に向けるつもりもない。
ただ、今回はそういう手札を切ったというだけの話だ。
「……」
短く一息だけつく。
それは、休息というよりも、気持ちを切り替えるスイッチに過ぎない。
シモンは剣を納め、一度だけ肩を回した。
そして、風を追い越した。
――教え子たちが向かうワイアースへ、一気に駆け出す。
足元を掠める枝葉は、シモンに煽られ宙を舞う。
背後には、局所的な台風と冬の嵐に晒されたかのような、無残な木々だけが残された。
斬撃に裂かれ、風に叩き折られた幹。
削がれた枝葉が、ひゅうひゅうと寒々しい音を立てる。
その破壊の痕跡こそが――この場に「何」が存在していたのかを、雄弁に物語っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
白影を追い詰めながらも、最後には教え子たちの安全を優先したシモン。
敵を仕留めることと二人を守ること――迷わず後者を選んだ彼の判断を、どう思いましたか?
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