2-1
――ああ、疲れた。
体の内から聞こえてくる声はひどく呑気で、現実が見えていないようだった。
泥濘に足を取られながら、息も絶え絶えに後ろを振り返る。行く宛てもなく走り続ける仲間の顔は総じて引き攣り、雨か涙で濡れていた。
誰かが転び、助け起こそうとする者を制止する。捨て置け、立ち止まってはならないと。
懇願する声を無視して走り出せば、すぐさまそれは激しい雨音に掻き消された。
「エダニ、エダニよ」
空気を求め喘ぎながら、朦朧とした意識の中で呼びかける。
「白霧の王が、死んでしまいました。どうか、どうか狂える獣たちをお鎮めください」
泣きわめく赤子を抱きすくめ、終わりの見えぬ樹海を進む。
耳にこびりついた悲鳴が気力を削り、重い足が体を下へ下へと引き摺ってゆく。
膝をつきうずくまった泥道に、死んだ仲間の顔が浮かんだなら、とうとう起き上がることは叶わなかった。
「スフェーン、ごめんなさい……。もう、走れない……」
赤子の名を呼び、固く抱きしめる。
最期の瞬間を待つために。
次第にその姿が闇に包まれ、雨の音も、迫る狂乱の声すらも遠ざかる。
ひたすらに続く無音の闇。その中で仄かに光る赤子を見て、ゆっくりと、顔を持ち上げた。
◇
「えっ」
暗闇が晴れると同時に聞こえたのは、戸惑いを多分に含む低い声だった。
続けて眼前に映るは、驚きに染まった見知らぬ男の顔。暗い褐色の肌に浮かぶ灰色のアザに目が行ったのも束の間、忘れていた浮遊感が腹部を襲い、咄嗟に身を縮める。
「待っ、どぁッ!!」
太く逞しい腕が体を捕らえた直後、視界が大きく揺れる。しかし自身を見舞った衝撃はごく僅かに抑えられ、その大半を目の前の男が代わりに被ってくれたことは明らかだった。
暫しの沈黙を経て──アデレードは慌てて下敷きにしてしまった男から退いた。
「ご、ごめんなさい!! 大丈夫ですか!?」
「え……ああ、別に、全然……」
丸く見開いた琥珀色の瞳に困惑を滲ませた男が、気の抜けた声で応じる。顔の右側に垂れた細い三つ編みごと、彼は硬そうな象牙色の髪を掻き上げ──アデレードの真っ赤なドレスに目を落とした。
「……?? あんた何処のお姫さんだよ……」
「へ!? い、いえ、私は」
「いや待て、どうせアイツだな。──おい、ライラ! 俺を緩衝材にするなって何度言えば分かるんだ!」
男が呆れた声で抗議したなら、すぐさま後ろの扉が開き、空色の髪の魔女がへらへらしながら顔を覗かせた。
「その子、魔法に慣れてなくてね。君なら良い感じに受け止めてくれるかなと思って」
「あのな、それで間違って落としたら大怪我……」
「部屋はまだ空いてたよね? アデレードも今日からここで暮らすから仲良くしてね、ルゴール。それじゃあ私はちょっと出掛けてくるよ」
「は? おい待て! ライラ!!」
魔女──ライラは構わずにトランクを扉の横に置くと、ひらりと手を振って廊下に消えてしまった。
二人が慌ててその後を追っても、彼女の姿はどこにもない。木造のアーチ梁が連なる落ち着いた内装の廊下を見詰めてから、アデレードは恐る恐る隣を窺う。
ルゴールと呼ばれた男は忌々しげに溜息をつくと、やりづらそうな目でこちらを見た。
「あー……えーと、とりあえず、何だ。部屋、決めるか」
「えっ……」
当惑しているのは彼も同じだと思っていたのに、順応は存外に早かった。
アデレードがおろおろしているうちに立ち上がった彼は、したたかに打ち付けたであろう大きな背を後ろ手に摩りながら、廊下をしばらく進み。
はたと、こちらを振り返った。
「どうした? どこか痛めたか?」
気遣わしげな強面を呆然と見上げ、アデレードは慌ただしくかぶりを振った。
トランクを抱えて廊下を進むたび、板張りの床が微かに軋む。
見慣れないモチーフが刻まれたアーチ梁や、閉め切られたカーテンの刺繍などを順に眺めていたアデレードは、ついで前を行く広い背中をちらりと見遣る。
彼──ルゴールを表すなら、筋骨隆々。その一言に尽きる。
背丈はアデレードよりも頭二つ分以上は高く、鍛えられた全身の筋肉が彼をより大きく見せていた。剥き出しになっている強靭な肩と、太い腕の凹凸をまじまじと見てしまった後、我に返ったアデレードは不躾な目を恥じた。
(バークレイ卿よりも大柄な人を見たことなかったから、つい……ティムは細身だったし……)
内心で誰にともなく言い訳を垂れていると、彼がおもむろに立ち止まった。そうしてすぐ傍の扉を開けては、悩ましげに一つ唸る。
「まぁ使えるのはここぐらいか……あー、アデレード、だったか?」
「はっ、はい!」
つい大きな声で返事をしてしまえば、びっくりした様子でルゴールが振り返った。
「お、おう。ひとまずこの部屋を使ってくれ。俺は下の階にいるから、何かあったら呼べばいい」
「ありがとうございます。あ、その……ルゴール、さま?」
控えめに呼びかけると、彼の顔がぎょっと引き攣る。さらにはまるで正気を疑うかのような目で見られてしまったので、アデレードは沈黙の末に言い直しておいた。
「ルゴールさん……?」
「何だ」
太い眉は未だに顰められたままだが、とりあえず返事があったことに安堵しつつ、先程からずっと聞きたかったことを尋ねてみる。
「あの、ここは何処なのでしょうか?」
「は?」
「それから魔女様のお名前は、ライラ様でよろしいですか……?」
アデレードのあまりにも初歩的な質問を受け、彼はあんぐりと口を開けた後、適当極まりない魔女に対する怒りを飲み込むかのように額を覆ったのだった。




