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「さっきの魔女はライラ。この城の主だ、一応な」
薄暗い部屋に明かりが灯る。
ルゴールは小卓に置いたランプの位置を調整すると、おもむろに足元を探っては片足で櫃を引きずり出した。
蓋を開き、中に何も入っていないことを確かめた彼は、続けて部屋の奥——締め切られた鎧戸の方へ向かう。
「で、城はフィリネウス湖の東側にある」
「フィリネウス湖?」
鎧戸の小さな閂を二つ抜いて、ルゴールが怪訝な表情で振り返る。
「知らないのか?」
未だに部屋の入口で突っ立っていたアデレードは、逡巡の末に小さく頷いた。
「珍しい奴もいたもんだな……」
「す、すみません」
「いや別に構わんが——ほら、あれだ」
鎧戸が開かれると、ひんやりとした夜風が吹き込み、ドレスの裾が重たく揺れる。四角く切り取られた夜空を一瞥したルゴールが、ひょいと手招きをした。
促されるままに踏み出そうとして、ひとまずトランクを扉の傍に置く。そうして改めて部屋の奥へ向かうと、華やかな景色が目に飛び込んできた。
「わ……」
美しい星空を丸ごと写し取る、広大な湖。鏡写しの空は、星々の光も、それが各々の強さで瞬く様子さえも鮮明に捉えている。
そして湖上に佇む山——否、恐らくは街とおぼしきものもまた、その一部として温かな光を放っていた。
「あれは……」
「ネウス湖上都市。この付近で一番デカい街だな」
アデレードの淡いブルーの瞳に、橙色の煌めきが揺れる。
昔、子爵家の——亡き母の部屋で埃をかぶっていたおとぎ話に、あのような街が登場したことを思い出した。
誰にも読み聞かせなどはしてもらえなかったから、ただひたすら鉛筆だけで描かれた挿絵を眺めていたのだが、物語の中ではきっとこんな色彩をしていたに違いない。
どこか現実離れした華やかな夜景に、アデレードは暫し見惚れてしまった。
「……本当に見たことないんだな」
「はっ」
我に返って振り向けば、そこでルゴールが心底不思議そうにこちらを見詰めている。
「もしかしてトゥバンから来たのか……その顔は違うな」
口を半開きにしたまま首を傾げてしまっていたことに気付き、アデレードは羞恥と共に顔を覆った。
「あ、あの、すみません。私、スフェンダムという国から参りました。なにぶん、国外に出たことが一度もなくて……」
「スフェンダム?」
今度はルゴールがぽかんとする番だった。
彼は暫く記憶を漁るように虚空を見詰めていたが、該当するものはとうとう見当たらなかったらしい。
「聞いたことねぇな……しかも国だと? トゥバン以外にそんなもんあったか? 所領なら分かるが」
ぶつぶつと独り言をこぼす彼を見上げ、アデレードは少しの躊躇いの後、口を開いた。
「私の国では、外はとても恐ろしい場所だと言われていました。大陸を隔てる樹海を抜けてしまえば、たちまち異形の怪物に襲われてしまうと……」
「なるほど、異形の怪物な」
そこでルゴールが平然と自らを指差すものだから、慌ててかぶりを振っておく。
「とても古い言い伝えですから、きっと誇張されていた部分があったのですね。ルゴールさんもライラ様も私と同じ人間ですし、あの街を見るに文明だって」
「待った」
夜に煌めく湖上都市を指して明るく語っていたアデレードは、きょとんと言葉を切る。
対するルゴールは先程の呑気な面構えとは一転、とんでもない珍獣を発見してしまったとばかりに目を見開いていた。
「あんた、……亜人族も知らないのか?」
「あじん?」
「いくら人間でもさすがに……いや、あんた霧の孤島の出身ですらないってことか!?」
亜人族に、霧の孤島。どちらも聞き覚えがないことを示すべく控えめにかぶりを振れば、いよいよルゴールが後退る。
「道理で俺を見ても平気な顔してると思った……」
「アデレードは大陸東端の半島から来たんだよ」
「!!」
ぼそりと呟いた彼の真意を確かめることは出来なかった。
二人がはたと目を丸くして部屋を見回し、同時に鎧戸の方を振り返ると。
「やあ、さっきは急にいなくなってごめんよ」
いつの間にか窓枠に腰掛けていたライラが、片手を挙げて笑った。
◇
「言うの忘れてたね。樹海の外に人間は殆どいないよ」
けろりとした笑顔で語るライラに、アデレードは言葉を失った。無論、その傍らではルゴールが深い溜息をついている。
二人の反応などお構い無しに、ライラは談話室に置かれた安楽椅子に腰掛けては、満足げに揺れる。その様は妙齢の魔女というよりかは、おもちゃ感覚で揺れを楽しむ子供に近かった。
「こっちに暮らしてるのは亜人族って言ってね。獣や精霊が人間と混ざった、特殊な種族なんだ」
「獣に、精霊??」
まるで意味が分かっていないアデレードの困惑顔を見てか、ライラがおもむろに椅子の揺れを止める。
魔女は思案げに天井を仰ぎ、ゆるりと人差し指を立てた。
「スフェンダムの北側に分厚い樹海があるだろう? アレが何なのか知ってるかい?」
「……いえ」
アデレードはぎこちなく首を左右に振る。
かりそめとはいえ公子の婚約者となったからには、自国の歴史や地理についても一通り頭に詰め込んできたが――魔女が言った件の樹海に関しては、その限りではなかった。
「女神エダニ様から賜った樹海、としか」
スフェンダムにおいて、万物の創造主たる造化神エダニと、エダニが遺した神秘を探究することは、その行い自体が冒涜とされてきた。
件の樹海も然り。あの地は大陸と半島を隔てる禁域であり、神域。ゆえに如何なる調査隊の派遣も許されなかったのだ。
彼らに許されたのは、警句に従って樹海の入口を固く閉ざし、その全てを意識の外に置いやること――それだけだった。
「変だな、と思った?」
「!」
思考を見透かしたような問いかけに、アデレードは自然と下げていた視線を持ち上げる。
魔女は安楽椅子に背中を深く預けたまま、ゆるりと笑っていた。
「あの樹海は千年ぐらい前、君たちを守るためにエダニが与えたものなんだ」
「守る……異形の怪物から、でしょうか?」
「そう。彼らに――亜人族に、君たち人間がこれ以上食べられないように」
ざわりと背筋が冷え、アデレードは何と返すべきかも分からず立ち尽くす。
視界の端では、言葉を選ばずに喋る魔女を咎めるように、ルゴールが小さく溜息をつく姿があった。
「……。アデレード、千年前のことだからな。俺も亜人族だが、人間は食わねぇから安心しろ」
「っは、はい」
「つまりアデレードの国は、あの事件の生き残りが建てたってことだな? ライラ」
魔女はにこやかに首肯を返すと、軽い動きで安楽椅子から立ち上がる。
「霧の孤島に暮らす人間が『抵抗』を選んだ民なら、スフェンダムの人間は『忘却』を選んだ民ってところかな。だから君たちは何も知らないし、誰も君たちのことを知らないんだ」
膝まで覆うブーツで小気味よく床を鳴らし、こつりと踵を揃える。談話室の入口で体を翻した魔女は、後ろ手に扉を開けて笑ったのだった。
「おいで、アデレード。君たちが忘れた過去について教えてあげよう」




