2-3
女神エダニが天上へ旅立ち、幾千の夜が過ぎたその日。
エダニの忠臣であり我らが長、白霧の王が命を落とされた。
王の朋輩、黒竜タリクの乱心によるものである。
黒竜は王の首を食いちぎると、その滴る血を獣たちに撒いた。
王の血を啜った獣たちは、瞬く間に我らと同じ姿へと変わった。黒竜もまた、同様である。
人の肉体を、知能を、言葉を、感情を手にした獣たちに、黒竜は告げた。
『全能の女神へ近付きたくば、白霧の民を喰らうがいい。恐れることはない。これは女神が望む、種の進化なのだから』
黒竜は、生まれたばかりの新しい人類を、果てのない狂気へと導いた。
獣たちは止まらない。我らを喰らい尽くすまで、決してあの渇望を鎮めることは叶わぬだろう。
エダニよ。どうかお戻りください。
貴女の忠臣を、お救いください。
貴女の愛した大地が、腐り落ちてしまう前に。
◇
最後に続くのは、繰り返される祈りの言葉。遠い祖先の切なる呼び掛けは、スフェンダムの民が日頃捧げる願いとよく似ていた。
「それが〈永久の晩餐〉。白霧の民――つまり人間が、大陸から逃げ出すことになった原因だね」
古びた書物から顔を上げると、書架に寄りかかったライラがにこりと微笑み、思い出したように付け加える。
「あ。ルゴールが言った通り、今の亜人族はこんなことしてないよ」
こんなこと、と書物を指差した魔女は、青ざめて絶句しているアデレードの手から、するりとそれを抜き取った。
「〈永久の晩餐〉はかなり長引いてね。黒竜が討たれるまで、大勢の人間が死んじゃったんだ」
「その中で生き残ったのが、私たちスフェンダムの民と……」
「霧の孤島に逃れた人々だね」
ライラは書物を元の場所に戻すと、軽い足取りで書架の端まで進む。そのまま見るからに貴重な書物の山をがさごそと遠慮なく漁る魔女に、小心者のアデレードはそわそわとしてしまった。
「あの……ここの書物は、全てライラ様が蒐集されたのですか?」
「いや? 前の城主が趣味で集めたやつ」
「あっ、そうですか」
「うん。――はい、この辺りの地図だよ」
差し出されたのは平たい木箱。傍らの小卓に置いて蓋を開けてみれば、中には羊皮紙とは異なる薄い紙束が収められていた。
(さっきの書物もそうだったけど、毛筆で書かれてるのね。珍しい……)
スフェンダムでは滅多に見れない流麗な筆跡に目を奪われつつ、少しばかり黄ばんだ表紙を捲る。
すると、フィリネウス湖を中心に据えた簡易的な地図が現れた。
「北の海に小さな島が描いてあるだろう? それが霧の孤島だよ」
大きな湖の北方に広がる陸地には、タラッタ霊峰と記された山脈が東西に広く横たわる。そこから更に北へ向かうと、内海に浮かぶ孤島があった。
霧の孤島――ここに、千年前に散り散りになった同胞が暮らしているのかと、アデレードは小さく息を呑む。
「白霧の民はね、他の動植物と違って、エダニの吐息から生まれた種族なんだ」
「吐息、ですか?」
「うん。エダニの吐息が大地に立ち込める真っ白な霧になって、そこから生まれたから、白霧の民」
何とも飲み込みがたい、如何にも神話らしい由来だ。アデレードが半信半疑で相槌を打ったなら、黒い手袋に包まれた魔女の指先が額に添えられる。
「つまり君たちは最初から、エダニの魂をほんの少しだけ持っていたんだ」
「え……?」
「だから黒竜はただ人間を食べたんじゃない。エダニから生まれた小さな神を殺して、その魂を己の一部にしてしまったんだよ」
指先はアデレードの唇をなぞり、喉を伝い、腹へと下りた。
へその辺りを手のひらで柔らかく押しながら、ライラは静かに微笑む。
「〈永久の晩餐〉によって、エダニの魂は無数の獣たちに混ざり込み――彼らを人間によく似た亜人族へと変貌させたわけだ」
手のひらが離れると同時に、アデレードは思わず後ろへ数歩下がった。
魔女が触れていた場所を押さえると、心なしか温かい。体の内側に小さな火が灯り、一瞬にして消えたような、奇妙な感触だった。
「……え、と。それが、亜人族の起こり、ということなのですね」
ひとまず話を進めてみれば、魔女はやはり何事も無かったかのように頷く。
「そうだね。黒竜が討たれてからは、彼らも反省して理性的な……文明的な? 暮らしをするようになったよ。自分たちの手で都市を築ける程度にはね」
現在の亜人族が人間を食べなくなったのは、先祖が起こした凄惨な事件を恥じている証。あるいは、そうした悔恨を感じられる倫理や情緒が育った証なのだろう。
獣から人へ。発端は惨たらしい事件だったが、彼らの精神は長い時間を――それこそ千年掛けて、肉体の進化に追いついたのだ。
「このタイミングで君が樹海の外に出たのも、何かの縁かもね」
ライラは独り言に近い語調でそう告げると、昔話を終わらせるが如く、開きっぱなしだった古地図を閉じた。
「大陸史はザッとこんなものかな。亜人族がどれだけ人に近いのかは、実際に見てみるといいよ」
「実際に……」
「そうだ。明日、ネウスに行ってみるのはどうだい? あそこは亜人族がいっぱいいるから」
「――おい待て、それなら絶対お前も付いて来い」
「うん?」
書庫の入口で魔女の語りを静かに聞いていたルゴールが、凭れていた扉から背を離す。
そうして大股に魔女へ歩み寄っては、その眼前に人差し指を突き付けた。
「あのな、確かに亜人族はもう人間を片っ端から食うような真似はしねぇが……拉致監禁はするだろ」
「拉致監禁!?」
突然飛び出した物騒な単語にアデレードがギョッとする傍ら、ルゴールは至極真剣な表情で続ける。
「珍しいからって人間を捕まえようとする奴がどんだけいるのか知らねぇのか? 霧の孤島の人間なら返り討ちに出来るだろうが」
「んー、アデレードは無理かなぁ。魔法知らないもんね」
「だから明日は絶対にフラフラ歩き回るなよ、いいな」
「そっか、わかった。ということでアデレード、人間はやっぱり今でも興味を惹くみたいだから、街を歩くときはよく注意してね」
「ええ……!?」
注意してどうにかなるものなのかと、アデレードは不安と困惑を露わに青ざめる。が、怖気づいたところでスフェンダムに戻る選択肢は端から存在しないため、ここは腹を括るしかあるまい。
——これから外界で生きるつもりなら、まず知ることから始めなければ。
アデレードが意気込むように頷けば、対する魔女は微塵も緊張感のない笑顔で応じたのだった。




