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トランクを開けたとき、意図せず涙が込み上げた。
綺麗に畳まれた裾長のチュニック。細帯に小袋、悪路にも耐えられそうな立派な靴。友が用意してくれたであろう旅装を一つ一つ確認して、底に埋もれていた小箱を拾い上げる。
そっと蓋を開けば、そこには王家の姫が身に付ける楔石の耳飾りが鎮座していた。
「シシー……」
贈られたのは片方だけ。残る一つはきっと、今も王女の耳に在るのだろう。
淡い緑に透ける石を朝日にかざし、アデレードは深く息を吸った。畏れ多くはあるものの、華奢な飾りをそっと左耳に挟み込み、旅装に身を包む。
そして昨晩、半ば破るように脱ぎ捨てた真っ赤なドレス——今や嵩張るだけのゴミと化したそれを見遣り、どう処分したものかと溜息をついた。
「……また帰ってきたら考えよう」
今日はライラの提案に従って、ネウス湖上都市へ向かう予定だ。
〈永久の晩餐〉が終息した後、荒廃した大陸で亜人族が一から築き上げた街。千年ほど交流を絶っていたスフェンダムからの訪問者は、恐らくアデレードが初になるだろう。
多大な不安はあれど、少しの好奇心が顔を覗かせているのも、また事実。アデレードは軽く頬を叩き、丸まりがちな背中をしゃんと伸ばして扉を開けた。
「おはよう、アデレード」
そしてそこで待ち受けていた魔女に、びくりと肩を揺らす。
「お、おはようございます。ライラ、様……?」
しかしアデレードの注意を引いたのは、魔女が肩車をしている幼い少女だった。
蜂蜜色のふわふわとしたボブヘアに、触れたくなるほどもちもちの頬。まあるい眉の下、如何にも眠そうなオレンジの瞳が瞬く。
黒いフリルシャツや桔梗色のエプロンドレスなどの装いに至るまで、とても可愛らしい少女だったが——。
(角だわ……)
ヒツジかヤギを彷彿とさせる、巻き貝状の二本角。天を向いた鋭い先端に目を奪われていると、睡魔に負けた少女がライラの頭にぽすっと倒れてしまった。
「おや、まだ寝足りなかったかな」
「ライラ様、その子は……?」
「ヴィヴィだよ。獣種の亜人族で、ヒツジの女の子だね」
ライラは角の少女——ヴィヴィを肩から降ろすと、重たそうな頭を自身に凭れさせる形で抱え直す。
「ルゴールと一緒に城へ来た子なんだ。仲良くしてね」
「は、はい。それは勿論」
スフェンダムでは王女と共に、定期的に孤児院を巡っていた。ヴィヴィと同じぐらいの幼子と接した経験もあるしと、アデレードはここへ来て初めて自信を取り戻したような気分で大きく頷く。
ライラもまた嬉しそうに頷き返し、軽い足取りで階段へ向かった。
「それじゃあ出発しようか。ルゴールが下で待ってるよ」
◇
城からフィリネウス湖までの道のりは、それほど険しくはない。
すぐ側に深い峡谷はあれど、谷底の川に沿う形でゆるやかな山道が敷かれ、アデレードの足でも容易に辿り着ける距離だろうとのことだった。
――ただ、それは彼女の背中に重りが載っていない場合に限った話である。
「ヴィヴィちゃん。降りるんだ」
強面に似合わぬ可愛らしい呼称を口にしながら、ルゴールが真面目な面持ちで窘めた。
彼の目の前には、ヴィヴィを背負って汗だくになりながら歩くアデレードの姿がある。彼女がぜぇはぁと荒い呼吸を繰り返す傍ら、城から一歩も歩いていないヴィヴィは涼しげな顔でその背中にしがみついていた。
「あのなヴィヴィちゃん、アデレードは亜人族じゃないんだ。魔法も知らねぇし、見たところ体力も無いと思う」
ルゴールが少女を説得するための言葉は、そのままアデレードの運動不足をまざまざと実感させるものとして突き刺さった。既に感覚を失って久しい両腕をぷるぷると震わせながら、アデレードはがくりと項垂れる。
するとまたひとつ視界が低くなったであろうヴィヴィが、不満げに背中をぺちりと叩いた。
「ライラは平気だったって? そいつは……よく分かんねぇよ俺だって。誰と比べたって失礼だろ」
当人の前で失礼なことを喋っている自覚はないのか、ルゴールが少女を背中から引き剥がそうと試みる。だがその鋭利な角で手のひらをグサリと刺されてしまえば、屈強な大男はあえなく撃沈した。
傍ら、三人のやり取りをのんびりと眺めていたライラはと言うと。
「ヴィヴィ、私じゃ駄目なのかい? ——そう、今日はアデレードにおんぶしてもらいたい気分なんだね。それじゃあ仕方ないか」
あっさり諦めて歩みを再開していた。
「おい待てコラ! ……はぁー……ったく、しょうがねぇ。アデレード、街に着くまでちょっと我慢してくれよ」
「へ? えっ、え、わっ!?」
とうに膝をついて動けなくなっていたアデレードの腹部に、逞しい腕が回される。強い力で後ろへ引き起こされたかと思えば、何かを察したヴィヴィがのろのろと横へずれ始めた。
そうしてアデレードが慌てて少女を体の前で抱え直すのと、ルゴールが二人をまとめて横抱きにしてしまうのは同時だった。
(ち、近い……!)
婚約者のいる貴族令嬢なら一度や二度、愛しい人の腕に抱かれたことぐらいあるだろう。だが忘れることなかれ、ここにいるのは婚約者に利用されていただけの愚かな私生児。当然そんな経験など無い。何なら手繋ぎだって手袋越しにしか——アデレードは屈辱感が湧く前に忌々しい記憶を搔き消しておく。
とにかく、アデレードは羞恥に赤らむ頬を晒したまま、目を白黒とさせることしか出来なかった。
「ル、ルルルルゴールさん!?」
「ヴィヴィちゃんはそうなると言うことを聞かないんだ。気が済むまで背中でも撫でてやってくれ」
そう言われても、果たして撫でさせてくれるかどうか——アデレードは火照った頬はそのままに、女王様気質な少女を恐る恐る見遣った。
しかしルゴールの腕によって抜群に安定感が増したことで、ヴィヴィの機嫌もすっかり良くなったらしい。少女はアデレードの肩口に頬を預け、すでに昼寝の体勢を取っていた。
おっかなびっくり背中を撫でてあげれば、早くも寝息が聞こえてくる。アデレードはひとまずホッと息をついた。
「あの、ルゴールさん。ヴィヴィちゃんはともかく、重くありませんか……?」
「丸太を担いで休まず三日移動したこともある。気にすんな」
それは一人でやる仕事量ではない。
アデレードが驚愕と心配で絶句しているのにも構わず、彼は晴れた山道を大股に進んだ。




