1-7
一寸先も見通せぬ暗闇が、視界を塗りつぶした。
全ての音を奪われ、得体の知れぬ不安が襲ったとき、磨き抜かれた大理石が眼前に迫る。
自分の顔がはっきりと見える距離でようやっと我に返り、しかし突き出そうとした両手が間に合わないことを悟ったなら。
「うっ!? ──あう」
一瞬の滞空を経て、べしゃりと床に倒れ伏す。
今、ほんの僅かだが宙に浮いたような気がした──顔面着地は変えようがなかったものの、衝撃はこれでも幾らか和らいだのだろう。アデレードは鼻面を押さえつつ、よろよろと体を起こした。
「おっと。ごめんよ、怪我はなかった?」
「は、はい、大丈夫です……あの、それより魔女様、今、何が起きて……?」
すぐ傍に平然と立っている魔女は、笑顔のまま体ごと首を傾げ、「ああ」と頷く。
「魔法だよ」
「まほう……」
「魔法」
他に言いようがないとばかりに繰り返した魔女は、説明もそれで十分だと思ったらしい。にこりと笑ってアデレードの手を引き、軽々と立たせては背中を押した。
柱の間を抜けると、そこは人気のない小広間だった。公爵以上の貴賓をもてなす際に使用される特別な場所で、まさにアデレードが探していた人物がこちらに背を向けて立っていた。
「バークレイの手当てが済み次第、すぐに…………アデル?」
近衛騎士への指示を中断し、セシリアがハッと振り返る。王女は珍しく呆けた顔で固まった後、にわかに眼差しを険しくさせた。
そうして大股にアデレードの傍までやって来ると、柱の影に佇む魔女を睨み付ける。
「魔女よ、どういうことです。何故アデルをここに……!」
「あっ……シシー、どうか魔女様を責めないでください! これは私が望んだことなんです」
アデレードは慌てて二人の間に割り込み、いきり立つセシリアの肩を摩った。
王女は約束を違えた魔女に不信感を露わにしながらも、ひとまず話を聞くことにしたらしい。
人払いを命じられた近衛騎士が姿を消し、誰もいなくなった広間でアデレードは口を開く。
「……ティムのこと、聞きました」
「!」
「私を利用して、彼はシシーを暗殺しようとしていたのですね。第一王子殿下を王位に就けるために」
ティムを含む公爵家は、スフェンダム王国の貴族派を牛耳る権力者だ。その思想は非常に保守的で、慣例を崩すことを良しとしない。
いかにセシリア・ローナンが優秀で、他の王族よりも頭一つ抜きん出ていたとしても、建国以来続いてきた長子継承を覆す理由にはならないというのが彼らの主張だった。
だが、公爵家がいつの時代も王太子の後ろ盾となることで、議会での発言力を高く維持してきたという事実を無視してはならない。
セシリアが現状親しくしているのは遠縁の公爵家ではなく、幼い頃より師事してきた王弟──叔父であるグレアム•ローナンが当主を務める大公家だ。このままセシリアが王太子に内定してしまえば、公爵家の振る舞いも今まで通りとは行かなくなる。
だからこそ、公爵家は決断した。
己が権力を守るため、邪魔な王女を消すことにしたのだ。
「私、何も……何も気付けなくて。自分が幸せになるためだけに、ティムと結婚することばっかり考えて……シシーはずっと心配してくださっていたのに」
自嘲気味に笑って告げれば、それを否定するように強く手を握られる。
セシリアはかぶりを振り、そっとアデレードの頬を撫でた。
「……真実を話せば、貴女から全てを奪うことになる。だからずっと踏ん切りが付かなかった。ごめんなさい、アデル……ごめんなさい」
私生児として長年虐げられてきたアデレードが、ようやく手にした幸福。それを偽物だと指摘し、再び不幸の底へ叩き落とすことが、果たして本当に正しいのか──。
そして、貴族派の企てが明るみになったが最後、確実に窮地に立たされてしまう友をどうすれば助けられるのか。
翠玉の瞳にそんな苦悩を滲ませるセシリアに、アデレードは控えめな笑みで応じてみせた。
「愚かな私を助けるために、魔女様をお呼びになってくださったのでしょう? ありがとうございます、シシー」
「駄目よアデル、お礼なんて言わないで。わたくしは貴女を外界に逃がせと指示したのよ。結局、この国では貴女を自由に出来なかった!」
「はい。それでも、シシーは私を見捨てなかった」
セシリアが不意をつかれたように言葉を詰まらせ、やりきれないとばかりに顔を歪める。
「……アデル」
「はい」
「わたくしは樹海の向こうに出たことなどない。書物にすら記述が残っていない危険な場所に、貴女を放り出すことになる」
「……はい」
「それでもわたくしは、アデルに本当の幸せを見つけてほしい。何にも縛られない、新しい世界で」
抱擁と共に告げられた願いに、アデレードは唇を震わせた。
このスフェンダムでただ一人、無条件の愛情を与えてくれた友をきつく抱き返せば、相応の力が返ってくる。
「魔女を頼りなさい。彼女は現状スフェンダムと外界を繋ぐ、ただ一つの道よ。……少し話が噛み合わないけど、貴女に危害は与えないと約束させたわ」
腕を緩めつつ柱の影を見遣れば、完全によそ見をしていた魔女がパッと鼻先を戻し、へらりと笑う。
「ごめんよ。会話はそんなに得意じゃなくてね」
「そうでしょうとも」
セシリアが若干の呆れを滲ませる傍ら、おもむろに魔女が近くへやって来た。黒い手袋に包まれた指先が、アデレードの方へと差し出される。
「それじゃあそろそろ行こうか?」
この手を取れば、今度こそセシリアとお別れだ。
アデレードは不安で落ち着かない心臓を押さえ、ゆっくりと深呼吸を挟んでから、深く頷く。
「よろしくお願いします、魔女さ」
「あ、その前に」
こちらの覚悟などお構いなしに出鼻を挫いた魔女は、何とも言えない顔をしているアデレードの後ろ、友の背を見詰めるセシリアに告げた。
「君が言ってた倉庫、使えないようにしといたよ」
「!」
「じゃあまたね」
軽い調子で笑った魔女は、そのままひょいとアデレードの手を掴み、柱の影に引き込む。想定した暗闇よりも更に濃い黒が視界を染めてゆくことを知り、アデレードは咄嗟に友を振り返った。
「シシー! また……また必ず、会いに行きます!」
ありがとう──叫ぶように告げた感謝の言葉に、セシリアは涙を浮かべて頷き、唇を動かす。それが自身と同じ言葉だったのか、はたまた別の言葉だったのかは、闇に包まれたアデレードには確かめようのないことだった。
◇
忽然と消えた友の姿を探しては、どこにも見当たらないことを悟り、ゆっくりと手を下ろす。
セシリアは暫し、薄暗い柱の陰を見詰めていた。
「王女殿下」
「公爵家の武器庫はどうなった」
そこへ現れた一人の騎士へ、顔の向きはそのままに問う。
「は。その……」
「魔女が処理をしたと言っていたわ。どのように?」
「……武器庫そのものが消えております。確認できたのは僅かばかりの残骸のみ、と」
思わず乾いた笑いが出た。
王家が代々密かに残していた切り札とやらが、どれほどのものか試すつもりだったが──あの魔女は果たして人が御せるものなのかと、セシリアは心底疑問に思った。本気を出せばこのような小国、いや半島ごと消し飛ばせるのではなかろうなと。
だが今は魔女の素性や、友の行く末に思いを馳せる時間はない。少しの瞑目を挟むことで頭を切り替え、王女は騎士を振り返った。
「これより逆賊の粛清に移る。夜明けまでに終わらせよ」
「御意に」
公爵家が反旗を翻すその日のため、そして王子に捧げるべく密かに溜め込んできた物資は、たった今消え去った。罪を逃れるためだけに、その価値も理解せずに用意した生贄も、手の届かない場所に移してやった。
彼らに残ったのは、王女を暗殺しようとした事実のみ。言い逃れなどさせてなるものか。私欲に目が眩んだ兄ともども、全員まとめて牢獄行きだ。
「……アデル。貴女に、女神エダニの加護がありますように」
セシリアは誰もいない柱の影を一瞥し、振り切るようにその場を後にしたのだった。




