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空繭のライラ  作者: みなべゆうり
1章 夢の終わり

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1-3

 驚いたのは一瞬のこと。アデレードは弾かれたように王女の肩を掴み、己の腕に引き込んだ。

 息を詰めたまま窓の外を見遣れば、宵闇を照らす橙色がぼんやりと揺れる。会場の出入り口を衛兵が忙しく動き回るのを確かめたなら、震える足を叱咤しつつ立ち上がった。


「な、何でしょう……? 近衛の方を呼んで参りますから、殿下はここに……」

「いいえ。その必要はないわ」


 廊下へ出て行こうとしたアデレードを固く引き留め、セシリアがゆるりと腰を上げる。すると図ったように化粧室の扉が音もなく開かれ、見知った顔の近衛騎士が二人、やはり衣擦れの音すら立てずに現れた。


「バークレイ。話した通りに」

「御意」


 王女は困惑するアデレードを騎士バークレイに預けてしまうと、自身はもう一人の騎士を伴って部屋の外へ。そして騒がしさを増す会場の方を冷ややかに一瞥すると、王女はちらりと視線を寄越して微笑んだ。


「アデル。どうか元気でね」

「殿下……?」


 アデレードはこの時、まだ状況が全く飲み込めずにいた。会場で何か騒動が起きたことしか──それでいて、大切な友人がどこか遠くへ行ってしまうような予感だけは、浅い呼吸を繰り返すたびにその主張を強めていく。

 漠然とした危機感に突き動かされて小さくかぶりを振ってみれば、王女はアデレードの混乱が続いているのを良いことに、踵を返してしまった。


「行きましょう」

「──シシー!」


 扉の奥へ消える横顔は、既にアデレードの友ではなく。〈王の茨〉と恐れられる、気高き王女の眼差しを湛えていた。

 呆然と立ち尽くすアデレードの隣、静かに瞼を伏せていたバークレイがおもむろに手を差し出す。意図を問うべく彼を見上げてみるも、こちらの問いに答えてくれそうな気配はなかった。


「……申し訳ございません。どうか、殿下のご命令通りに」



 ◇



 真紅のドレスをケープで覆い隠し、騎士の後ろを小走りに付いて歩く。会場とは真逆へ向かう通路を進みながら、アデレードは静まり返った廊下をそわそわと見回した。

 この付近は休憩室の類が無いとはいえ、あまりにも人がいない。一階なのだから使用人の待機場所をいくつか設けても良いはずなのに、不思議なことにどこも空室ばかりだ。

 まるで意図的に人を配置していないかのような──バークレイはそれを承知の上でここを通ったのだろうか。そっと騎士の背中を窺ったとき、ちょうど彼が空室の中を覗き込み、速やかに何かを取り出した。


「ラヴィン嬢」

「! はい」

「こちらを」


 渡されたのは、見覚えのあるトランクだった。中には既に荷物が詰まっているらしく、ずしりとした重みをアデレードの腕に伝える。


「バークレイ卿、これは殿下の……」

「ラヴィン嬢にお渡しするようにと」


 それは、アデレードとセシリアが遠出用に使っていた揃いの品。避暑地の離宮へ向かうから一緒に行こうと誘われて、親友との初めての旅行だからと張り切った王女が、これでもかと意匠をこらして作らせた──この世に二つだけのトランクだ。


「……私は、王都を出るのですか?」


 おぼろげながら、王女の目的が見えてきた。彼女はきっと、何か事情があってアデレードをどこかに隠したいのだろう。王都の外、子爵家と公爵家にも見つからないような辺鄙な場所に。

 ……だが、本当にそれだけだろうか?

 胸騒ぎは大きくなるばかりで、嫌な汗が頻りに額を湿らせている。何かと不遇な人生を歩んできた身ゆえ、こういった予感は驚くほど当たるのだと、アデレードは渇いた喉に唾を流し込んだとき。


「いいえ、ラヴィン嬢は……──!」


 バークレイが言葉を切り、アデレードの腕を強く引っ張った。互いの立ち位置を入れ替えるや否や、彼が腰に佩いた剣を引き抜き──甲高い音が耳を劈く。

 トランクを抱きしめたまま振り返れば、そこにはバークレイが謎の人物と切り結ぶ姿があった。


「バークレイ卿!」

「後ろに!」


 鋭く告げられ、返事も儘ならないまま後退る。壁に背中をぶつける頃には、バークレイが刺客の腹を深く切り裂くところだった。


「失礼、急ぎましょう」


 呻き声と共に倒れた刺客を一瞥し、バークレイが足早に歩みを再開する。

 アデレードも動かなくなったそれを恐る恐る迂回して、もつれる足で彼を追いかけた。


「バークレイ卿、今のはもしや殿下を狙った刺客ですかっ? ならば卿は殿下のお側に……!」

「いいえ。恐らく狙いは貴女です、ラヴィン嬢」

「え?」

「控室の付近にも数人ほど監視がおりました。貴女が消えたことに気付いて追ってきたのでしょう」

「監視!? だ、誰がそんな」

「申し訳ございませんが、今は外に出ることだけをお考えください」


 バークレイの緊迫した声音に圧されて口を噤んだものの、アデレードの顔色は悪くなる一方だった。

 化粧直しに向かう淑女の後をつけるような不埒な輩は、残念ながら夜会ではそう珍しいものじゃない。アデレードも何度か遭遇したし、そのつど上手いこと躱してきたわけだが、武装した人間に尾行されるのは初めてだ。

 この夜会でいったい何が起きているのか。セシリアは大丈夫なのだろうか? 会場にいるティムやキャンディスも──。


「!」


 余計な考え事をするなと言われたばかりなのに。

 ごく小さな音を聞き捉え、アデレードが我に返った瞬間、先導していた騎士の右肩に細い針のようなものが突き刺さった。


「バークレイ卿!」

「っ……」


 咄嗟に針を引き抜いた彼が、固く握りしめていたはずの剣を取り落とす。右腕がだらりと下に垂れたかと思えば、彼は左手でアデレードを引き寄せ、突き当たりの外へ押し出した。

 柱廊に転がったアデレードの体を、冷たい夜風が包む。乱れた髪を雑に押さえて振り返ると、バークレイは糸が切れたように崩れ落ちてしまった。


「バークレイ卿──」

「動くな」

「ひっ」


 首筋に刃が押し当てられ、すかさず背中から押さえ込まれる。腕を折り畳むように拘束されれば、アデレードの視界に複数の人影が現れた。

 そのうちの一人が忌々しげに舌を打ったかと思うと、彼は落ちたトランクを足で退かして言う。


「勝手にお出かけとは感心しませんな。大人しくお部屋で過ごしていれば、こんな手荒な真似はしなかったのに」

「な……だ、誰なのですか、あなたたち。殿下の騎士に危害を加えるなんて……!」

「お静かに。卑しいご令嬢が気にすることじゃあない」


 男はアデレードの顎を乱暴に掴むと、白々しい言葉づかいで笑った。顔に刻まれた傷跡が醜く歪むのを恐怖と共に見上げていれば、男が「おい」と仲間に呼びかける。


「騎士はその辺に転がしておけ、どうせ動けやしねぇ。さっさとご令嬢を連行するぞ」

「い、嫌、放して」

「ハハ、残念だなぁ。母親が阿婆擦れじゃなけりゃ、その綺麗な顔に見合った死に方が出来ただろうに」

「!?」


 嘲笑と一緒に投げかけられた不穏な発言は、アデレードの抵抗する気力を奪うには十分だった。亡き母の醜聞が今の状況と何の関係があるのかと、見開いた瞳に混乱を滲ませる。

 そんな様子を見て愉快に思ったのか、男はアデレードの腕をきつく締め上げたまま、打ち捨てられたトランクを睥睨した。


「王女サマも薄情な御方だ。あんたがこうなることはお見通しだったみたいだが──結局、私生児ごときに与える温情なんて、せいぜい騎士を一人付けてやることだけ。『親友』が聞いて呆れるぜ」

「……っ」


 ゲラゲラと笑った男が、戯れにトランクを強く蹴り飛ばす。床を滑ったトランクはすぐ傍の柱にぶつかり、ぱきりと不思議な音を響かせて沈黙した。

 そのごく小さな音に気が付いたのは、恐らくはアデレードだけだったことだろう。男たちは惨めな私生児を嘲笑うことに夢中で、トランクが不自然な音を出したことも、バークレイが倒れたまま、毒で朦朧とした眼差しをそれに注いでいることにも気付かなかった。


「ほら、行くぞ。身柄を引き渡したらすぐに撤収──」


 ずっと分厚い雲に覆われていた空が開け、青い月明かりが降り注いだときだった。

 踵を返そうとしていた男たちが、ぴたりと、その動きを止める。ある者は浮かせた片足を宙に留め、ある者はローブの裾をはためかせたまま、ある者は振り上げた手を糸で釣られたように固まって。

 皆が皆、その顔に困惑を宿し、次の瞬間には眼球だけを動かして互いを見遣る。


「何だ? おい、何だよ」

「体が……」

「どうなってるんだ、助けてくれ!」


 自然の法則を無視したような彼らの有様に、アデレードもまた困惑を露わにした。柱廊には未だ夜風が吹き抜け、すぐ傍では植え込みの葉がゆるやかに揺れているというのに、何故か彼らだけがその時間を止められてしまっている。

 恐る恐るアデレードが拘束された腕に力を入れてみれば──指は、滑らかに動いた。

 ならばと急いで男たちから距離を取ってしまうと、彼らの視線が一斉にアデレードに向けられ、「何故お前だけ」と口々に文句を連ね始める。彼らの罵倒を背に受けながら慌ててバークレイの元へ駆け寄り、その肩を支え起こした。


「ラヴィン嬢、面目ない……お怪我は」

「ありません、それより今のうちに逃げないと……!」


 バークレイは逡巡の末、控えめに首を横に振る。まだ体の麻痺が抜けていないことは明白だったが、かと言って彼をここに置いて逃げることも出来ず。

 どうしたらとアデレードが視線をさまよわせ、トランクに目を留めたときだった。


「っ……?」


 トランクの角に、一匹の青白い蛾が止まっている。

 それは月明りを浴びて輝き、大きな翅をゆったりと動かして──。



「やあ」



 ぬ、と視界に笑顔で割り込んできた女に、アデレードは思い切り悲鳴を上げた。



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