1-2
「こんなに腫れているのに気付かなかったって?」
「お部屋が暗かったから……」
「いいえ、そんなはずないわ。貴女の顔を正面から見れば一目瞭然なのに」
セシリアは、遠い親戚に当たるティムのことが好きではないようだった。昔から家族間の交流はあれど、いつ会ってもいけ好かない男だ、と。果てには貴公子を気取った顔面すら気に入らないとまで。ここまでティムのことを悪しざまに言えるのは、それこそスフェンダム王国中を探してもセシリアだけだろう。
かつては婚約の噂も囁かれていた高貴な二人の仲を邪推した時期もあったが──それはセシリア本人によって念入りに否定されていた。
「もう我慢の限界よ。アデルのお願いで今まで黙っていたけど、一度灸を据えてやらないと。公子にもキャンディス嬢にもね」
「シシー、どうかそれは……私の母が不貞を働いたのは事実ですから」
公爵家との縁を結ぶにあたって、母親のことは決して公の場で口にするなと子爵からキツく言われている。下手に反論して騒動を大きくし、ティムの手を煩わせるようなことがあれば、すぐさま婚約の話はなかったことになるだろうと。
アデレードが何よりもそれを恐れていることを、セシリアは理解してくれている。理解するだけで、共感は全くしていないだろうが。
案の定、不満げに眉を顰めてしまった王女に、アデレードは努めて明るく尋ねた。
「そ、それよりシシー、会場に行かなくてもよろしいのですか?」
「わたくしの友人を傷付けた不届き者となんて喋りたくないの。顔は見せたのだから、もう宮殿に戻るわ」
「そうですか……」
「アデル、貴女もいらっしゃい。わたくしのお部屋に泊まっていけば良いわ」
「ええっ!? いけません、いくら何でもそれは不敬ですもの」
アデレードは恐縮する素振りを見せながらも、そう出来たらどれほど楽しい夜を過ごせるだろうかと、内心苦笑してしまった。
──スフェンダム王国の至宝、セシリア・ローナン。
惨めな私生児が美しい貴公子に手を引かれて向かった先に、この聡明な王女はいた。
スフェンダム王国のありとあらゆる情報は王女の元に収束し、選別され、父たる国王の耳へ届けられる。国全体に張り巡らされた彼女の情報網が、茨のごとく鋭いトゲをもって謀反人を炙り出すことから、彼女にはいつしか〈王の茨〉という呼び名が定着した。
王女の手によって始末された不穏因子は数知れず。それゆえ国王はその見事な手腕を評価し、女性王族には許されなかった王位継承権を彼女に与えたのだ。
国民はセシリアを次の女王として支持しているが、社交界はそうとも限らない。王位は従来通り長子に継ぐべきだと主張する貴族たちも多く、中には「血の通わない王女」などと揶揄する者までいた。
しかし──。
『よろしく、アデレード。これからはよく顔を合わせるでしょうから、仲良くしてちょうだいね』
初めて出会ったあの日。
何の迷いもなく握られた手の温かさを、向けられた笑顔のやわらかさを、アデレードは生涯忘れることはないだろう。
「アデル? どうしたの……待って、もしかして手も怪我をしたの? 見せなさい」
「あ、ち、違います、大丈夫ですシシー!」
少なくとも、セシリアとティムを除き、こうして卑しい私生児の手を握る貴族はいないのだ。息をしているだけで不快と言わんばかりの態度を取られてきたアデレードにとって、この二人は間違いなくかけがえのない存在だった。
アデレードが控えめな笑みを滲ませていると、それを見たセシリアは何処か呆れたように肩をすくめ──不意に視線を落とす。
「……ねぇ、アデル」
「はい?」
「今、幸せ?」
囁くような問いかけ。
セシリアからこの質問が投げ掛けられるのは、今日が初めてではない。事あるごとに、それこそアデレードが何らかの嫌がらせを受けたり、被害を被ったりしたとき、王女はいつも悲しげに問うのだ。
「……はい。幸せですよ、シシー」
そしてアデレードもまた、今宵も同じ答えを口にする。
「私は本来なら、シシーとこうしてお話しできる立場ではなかったんです。あなたと、ティムがいてくれるから……私はまた明日も頑張れる」
子爵邸では希望なんて一つもなかった。生まれ落ちたことが罪であるかのように罵られ、使用人にすら見下されながら、毎日俯いて過ごしていた。
明日、この家が燃えてしまえばいいのに──その中で自分の穢れた体も焼け落ちてしまえばいい。そうすれば、全員が幸せな結末を迎えられるじゃないかと、そんなことを考えて。
かつての日々を痛みと共に振り返り、アデレードは高貴な友の手にそっと触れた。
「ありがとうございます、シシー。ティムと結婚すれば、きっとこうした嫌がらせも終わるはずですから」
ゆるく握った手を撫で摩ると、陶器のような白い指が力なく応じる。
いつもならここで終わるやり取りは、しかし、セシリアの常に無く冷えた眼差しによって引き伸ばされた。
「ごめんなさい、アデル。……貴女の願う『明日』を、受け入れることが出来なくて」
ふと強まった夜風が窓を叩く。
細く差していた月明かりが雲に遮られ、部屋には翠玉の瞳だけがぼんやりと浮かび、アデレードの戸惑う顔を捉えていた。
「もっと早く、覚悟を決めるべきだったわね」
そのとき、会場からゆったりと流れ続けていた優美な曲が途絶え──誰かの悲鳴が響き渡ったのだった。




