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暗く、湿気を帯びた樹海が波打つ。
豊かな葉を撫でながら、冷たい夜風が向かう先は、地続きに伸びた小さな半島。
霧がかった海に囲まれたそこでは、なだらかな窪地に築かれた都が光を放つ。
のどかな町並みを抜け、高地の城を覗き込んだなら、華やかな宴がそこで開かれていた。
しかし夜風が目指す場所は、人々が笑い合うダンスホールにはあらず──。
◇
もう長いこと、鏡台の前に座っていた。
静まり返った化粧室。飾り立てた亜麻色の髪を可能な限り直し、冴えない淡いブルーの瞳を固く閉じて、ゆっくりと開く。いつもより厚く塗り重ねた白粉を撫で、漏れる溜息をかろうじて堰き止めた。
そうして呼吸ごと潜めてしまえば、くぐもった喧騒が耳に届く。一定の大きさを保つ話し声。その裏側では、そっと花を添えるかのように優美な演奏が流れている。会場はもうダンスの時間に突入したことだろう。何事も無かったかのように──いや、何事も無かったのだ。彼らにとっては本当に、あれは気に留める必要などない些事だった。
右頬に広がる痒みの奥、未だ重たい痛みが残るそこを、アデレード・ラヴィンは億劫な気分で撫でつけ、もう一度だけ白粉を重ねておいた。
「アデレード? いるかい?」
しかし、彼女はその声ですぐさま立ち上がる。
控えめに叩かれた扉を振り返り、無作法と知りながら小走りにそちらへ向かう。それでも扉を開く寸前、サテンの赤いドレスを手で軽く直し、一呼吸を置いて──口角を持ち上げた。
「はい、ティム」
薄暗い廊下にいたのは、アデレードの愛する婚約者だった。
燭台の灯をやわらかく反射する飴色の髪に、甘く優しげな眼差し。人好きのする柔和な笑みを携えたティム・ブライスは、いつものごとく彼女の右手を掬い上げた。
「遅れてすまない。御父上から、君が化粧室に行ったと伺ってね」
「いいえ、お仕事が長引いたのでしょう? どうかお気になさらず」
ティムは申し訳なさそうに眉を下げ、ふと、何かに気付いた様子で言葉を切る。
彼の視線が少しばかり下へ落ちた瞬間、アデレードの胸に淡い期待が灯ったが。
「ああ、そのピアス。着けてくれたんだね」
「あ……っええ」
「今宵のドレスとよく合っているよ。やっぱりアデレードには赤が一番ふさわしいね」
称賛に応えるべく持ち上げた右頬が、鈍い痛みを訴える。膨らみかけた期待は一瞬にして萎み、恥ずかしい勘違いをした自分への嘲笑で頭がいっぱいになった。
──みっともなく腫れた頬をきちんと隠せたのだから、それで満足しておけばよいものを。
扉の影に拳を隠し、さほど好きでもない真紅のドレスを握り締める。これほど目立つ色でなければ、あんなにも注目を浴びることはなかったのにと、飲み込みきれない言葉が喉を詰まらせた。
「さ、行こうか。一曲ぐらいは踊れそうかな」
彼は何も知らないし、何も気付いてはくれない。それでも自分の異変を察してくれるのではと期待して、勝手に裏切られた気分に陥って。そんなことをもう何年も繰り返している。
ティムがアデレードに救いの手を差し伸べたのは、たったの一度だけだった。それこそ彼と初めて出会い、婚約の申し出を受けたあの日だけ。
思えば、あれが人生において最も幸せな瞬間だったのかもしれない。それまでの暗く息苦しく、肩身の狭い暮らしが一変するかのように見えた日。当時のアデレードは、期待した未来が暗いままで、それどころかより重さを増していくなんて思いもしなかったのだ。
「あら、お姉さま! もう具合はよろしいのっ?」
びくりと肩が震えた。
二人が振り向くと、明るい金髪の娘──義妹のキャンディス・ラヴィンがゆったりと歩み寄るところだった。パステルピンクの華やかなドレスの裾を揺らして、キャンディスはほんの少ししなを作って微笑む。
「ティムさま、お姉さまは体調を崩してしまったようですの。もう少しお休みになられた方がよろしいですわ」
「そうだったのか?」
ティムの視線がこちらへ戻ると同時に、義妹の笑顔に毒が混じる。弓なりに細まった意地の悪い瞳は、つい先程も見たばかりだ。
『──赤色のドレスがよく似合いますこと。あなたのお母様と同じ、まるで娼婦みたい』
見苦しくて汚らわしい。そう罵るだけでは飽き足らなかったのか、キャンディスは黙り込むアデレードの頬を扇で強く払った。
賑やかな会場がひやりと静まって、されど乱暴を咎める言葉が出るわけでもなく。彼らはむしろ、場違いな人間が順当な扱いを受けたと言わんばかりの、呆れにも似た視線を浴びせるだけだった。
「ね、ティムさま。お姉さまを休ませて差し上げて? お詫びに、今宵は私がお姉さまの代わりを務めますから」
最初からそれが狙いだったのだろう。義妹が我が物顔でティムの腕を絡め取る様を、アデレードはただ見詰めることしか出来なかった。
再び一人になった化粧室で、アデレードは何をするわけでもなく座っていた。
右頬の痛みはようやく引いたが、今度は胸の辺りが痛み始め、どうしようもない不快感がそこに溜まる。
婚約者は義妹のいい加減なでっち上げを信じ、アデレードに休むよう言った。挨拶回りは適当に済ませて、早めに迎えに来るからと。
──恐らくティムは迎えに来ない。
キャンディスにダンスをせがまれれば、必ず一曲は付き合うことになるだろう。その後、彼の友人たちに捕まって長々と話し込み、彼らの妹だか恋人だかも混ざって露骨な足止めをして。
「失礼いたします、子爵令嬢。お茶をお持ちいたしました」
こうして使いを寄越すのだ。
メイドによって運ばれてきたワゴンには、ハーブティーと一通の手紙。そこには案の定、馬車を手配したから気を付けて帰るようにとの旨が記されている。
きっと会場では、キャンディスたちが面白おかしくアデレードのことを話しているに違いなかったが、もはや羞恥心や悲しみが湧く気配はなかった。
(私が分不相応な立場にいるのは事実だもの)
ここスフェンダム王国における、たった二つの公爵家。そのうちの一つに生まれ、次期公爵として期待される麗しき公子ティム・ブライス。
彼の婚約者に据えられるのは、同等の家格か相応の財力を有する豪商の娘だろうと誰もが噂していたにもかかわらず、現れたのは凡愚な子爵家の娘。
それも、子爵夫人の不倫によって生を授かった、不名誉極まりない私生児だったのだ。
夫人は愛する男との子供、すなわちアデレードを産み落とすと同時に死んでしまった。当然、自分に欠片も似ていない娘を可愛がれるはずもなく、かと言って外聞を無視して捨てることも出来なかった子爵は、早々に後妻を迎えて新しい家庭を再構築することを選んだ。
存在を無視され、拒まれ、蔑まれ──使用人かそれ以下の扱いを受けて育ったアデレードが、ティムと出会ったのは奇跡としか言いようがない。
『この花が好き?』
建国祭に出席すべく王都へ赴くことになり、義妹の世話係として同行させられたアデレードが、大通りの花屋の前でふと立ち止まったときだった。
正直なところ、アデレードは靴擦れが気になって歩みを止めただけで、足元に置かれた花の美しさなど気付きもしなかった。義妹から下げ渡された古い靴で、どうしたら今日一日を乗り切ることが出来るのか、そればかり考えていた。
だからひどく驚いた。まるで見当違いな問い掛けにも、美しい青年がこちらを覗き込んで、いたずらに笑ったことにも。
『私の母が好きな花なんだ。君にもよく似合うね』
彼は購入した赤い花束から一輪引き抜いて、アデレードに渡した。誰にも大事にされずに生きてきた娘が恋に落ちるには、それだけで十分だった。
ただ、王都滞在中に彼と何度も遭遇し、そのつど花を贈られ、終いには求婚されることになるとは露にも思わず。
あれからアデレードの暮らしは急変した。公爵家と繋がる機会を逃すわけにはいくまいと、子爵は大慌てで講師を雇い、十五歳にしてようやくアデレードを貴族として教育することにしたのだ。
だが、付け焼き刃の作法はアデレードをかえって社交界で孤立させた。ただでさえ出自に問題がある身ゆえ、周囲からの視線は厳しく、拙い振る舞いを見るや否や嘲笑が飛ぶような有り様だった。
ティムの目が届かない場所で陰湿な嫌がらせを受ける日々は、婚約から三年経った今日まで続いている。それでもアデレードがかろうじて立っていられるのは、ティムへの恋心と──かけがえのない友の存在あってこそだった。
「……アデル!」
特別な愛称を口にして、その友が化粧室に飛び込んできた。
「え? お、王女殿下……っ?」
何故ここに、と尋ねるよりも前に抱きつかれ、アデレードは慌てて細い体を受け止める。視界に広がるブロンドの髪が、仄かな甘い香りを伴って揺れた。
「アデル、会いたかったわ。今日の夜会に参加すると聞いて探していたのに、どうしてこんな暗い部屋にいるの?」
「あ、ええと……」
「いえ、いいわ。またキャンディス嬢が子供じみたことをしたのね。はぁ、まったく……」
「殿下」
「今は二人きりよ。シシー、でしょう?」
戸惑うアデレードをぎゅうぎゅうに拘束して、セシリア・ローナンは不満げに呼び名の修正を求めた。
こうなると何を聞いても答えてくれないので、アデレードはようやっと表情を崩して笑い、自らも抱擁を返したのだった。
「……シシー、私も会えて嬉しいです」




