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「クソ、クソッ……一体どこなんだよ、ここはぁ!?」
張り上げた大声が、暗い森に木霊する。
とっくに頂点へ達している苛立ちと疲労、そして漫然と頭を支配する不安。それらを一刻も早く吐き出さんと叫び喚く男を、後続の者たちがうんざりとした顔で見つめていた。
「はぁ……おい。あいつと一緒にいたら俺たちまで見付かっちまうぞ」
もはや狂乱と呼んでも差し支えない勢いで暴れている男を一瞥し、互いに顔を見合わせる。
あの騒がしい男を囮にして、別行動を取った方が生存確率が上がるのではないか――うち一人が言外に訴えれば、皆同じことを考えていたらしい。気付かれぬ程度に歩く速度を落としてゆく。
「あんなのをリーダーにするんじゃなかったぜ。大体あいつのせいだろ、俺たちがこんな意味分かんねぇ場所に飛ばされたのは」
「同感だ」
彼が冷静に、それこそ喧しい口を少しでも閉ざしていられたら、自分たちは今もスフェンダム王国にいたはずなのだから。
『オイ!! お前の仕業なのか!? このアマ、どんな小細工を……!!』
あの不気味な魔女に食ってかかった瞬間、決着はついたも同然だった。
取り乱した一人が「助けてくれ」なんて口走ってしまったばかりに、彼らは魔女の手厚い救済を受ける羽目になったのである。
視界が暗闇に包まれた後、パニックに陥る暇もなく乳牛の群れが現れたときの感情は、当人たちにしか分かるまい。
「でもあの牛、何か形が違ったよな? 顔というか、……角がちょっと多かったような」
「おいやめろ、思い出させるな」
彼らがこそこそと言葉を交わす後方――成り行きでしんがりを務めていた若い傭兵オリオは、密かに溜息をついた。
(……こんなことになるなら、真面目に騎士、目指せば良かったな)
平民出身ゆえに叙勲がなかなか受けられず、同期の騎士見習いに誘われて傭兵団に入ったものの、回されるのは夢見た騎士生活には程遠い、後ろ暗い仕事ばかり。
自分と大して変わらない歳の子爵令嬢を監視しながら、こんな仕事がしたくて鍛錬をしてきたわけじゃないのにと、何度心の中で嘆いたことか。
だが、王女暗殺計画に加担してしまった時点で、もはや騎士になる夢は完全に潰えたようなもの。後悔したところで手遅れだ。
(こっそり一人で農場に戻ろうかな。牛は何か変だったけど……世話のやり方は実家と一緒だったし)
今からスフェンダムに戻ったとて、任務を失敗した傭兵に待つのは死のみ。
それなら些か怪しげではあるものの、あの農場で真面目に働いた方が幸せなのでは――と、オリオは先程それとなく提案してみたのだが。
『はぁ!? バカか、あのオーナーの目ぇ見たか!? 完全にイッてただろ!! あんな奴のとこで働けるか!』
『オリオ、田舎モンのお前はそれで良いかもしれねぇけどな、俺たちゃ金が欲しいんだわ。公爵家からたんまり貰うはずだった金を! ぜってぇ回収するんだよ!』
金に公爵家に名声に女――。
すでに無気力状態のオリオには何も心に響かなかった。何ならもう奇妙な牛の乳を絞ってみたい欲の方が強かった。
気付けば随分と彼らとの距離が開いていたため、オリオは静かに立ち止まる。
「戻ろう。……農場、どっちだったっけな」
「あっちだよ」
「あ、どうも………………」
帰路を示す親切な指先を凝視すること暫し、オリオは急激に引き攣り始めた喉を押さえた。
ガタガタと震えながら振り返ると、そこに黒いフードを被った、あの恐ろしい魔女がいた。
「やぁ、昨日ぶりだね」
オリオは声も出なかった。
昨晩、茂みから不意を突いて魔女に攻撃を仕掛けた直後、生まれて初めて宙に浮いてしまった衝撃と恐怖は鮮明に思い出せる。
また体が動かなくなるのではとオリオは身構えたが、幸い今のところはそういった気配は感じられなかった。
「オーナーが君たちを捜してたよ。迷子になってないか心配もしてた」
「え……」
「君は今から戻るつもりなのかな?」
のんびりと尋ねられ、オリオは長い沈黙の末に頷いた。
「……お前のせいで王都までの帰り道わかんねぇし。乳牛の世話なら、昔、やってたし」
「そっか、良い選択だね」
つい嫌味ったらしく答えてしまったものの、魔女は悪びれることもなければ気分を害した様子もなく、へらりと笑うのみ。
存外穏やかな対応に、オリオがふっと緊張を緩めたときだった。
「スフェンダムに徒歩で帰るならふた月は掛かるからね」
「ふた月!? どんだけ遠いんだよ!? ってかそんな距離、半島内じゃ……あ……?」
何かとんでもなく大変な事実に気付いてしまったような気がして、オリオはぴしりと固まる。
噴き出す冷や汗に乗じて腹痛まで覚えたなら、突然彼の耳にけたたましい音が届いた。
「!?」
「ああ、ほら、オーナーが迎えに来たよ。少し怒っているみたいだけど」
――ちゃんと謝ったら大丈夫だからね。
オリオは微笑む魔女から目を離さぬようにしながら、蟹歩きでその周りを迂回し、急いで傭兵たちの後を追いかける。
オリオは全速力で走りながら震える声で早口に呟いた。
「うううぅぇぇえぇ待て待て待て、ここ半島の外ってことかっ? だから牛も変だったしオーナーもあんな感じだったのか!? あの魔女マジで何してくれてんだよ! まずいまずいまずい……!」
今もなお荒くれ者の気分で森を闊歩している彼らに、意識と態度を即刻改めろと伝えなければならない。
さもなくばスフェンダムの伝承通り、異形の怪物によって命を落とすことになると。
「おい、お前ら! 今すぐ農場に帰…………」
だが、オリオの忠告は少々遅かった。
「――いけませんよ皆さん。ここはベネトナシュさんの私有地ですから、勝手に入ってはいけません」
白い薔薇が咲く屋敷の門前に、大きな黒い影が聳え立つ。
異様に発達した強靭な肩。森の影にあっても艶を帯びた表皮。対峙する敵を一突きに出来そうな、湾曲した鋭い角――白く染まった四肢の先で二つに割れた蹄の下には、抵抗虚しく叩きのめされたであろう傭兵たちが倒れていた。
農場にいた穏やかな乳牛とはまるで違う、闘志溢れる獰猛な雄牛を前に、オリオはつい腰を抜かしてしまう。
(何だあれ……今、あの牛からオーナーの声が……)
くぐもったような低い声で、抑揚を極限まで削った喋り方は、農場でオリオたちを迎えた巨漢とそっくりだ。
まさかアレが彼だというのだろうか?
浮かんだ疑問をすぐさま打ち消すよりも先に、答えは背後からもたらされる。
「やぁタルヴォス。この子は農場に戻るって」
いつの間にかそこに立っていた魔女が、また呑気に笑う。
恐ろしい雄牛――農場の主タルヴォスは、ゆらりとこちらを振り返り、虚ろな目でオリオを見詰めた。
「おや、それは喜ばしい。君はオリオくんでしたね、牛の世話に慣れていた……」
「…………」
「オリオくん……? ああ、すみません。私としたことが。この姿は君たちに馴染みがありませんでしたね」
半分ほど意識を飛ばしているオリオに気付いてか、逡巡の末にタルヴォスが前脚で地を叩く。
刹那、雄牛を黒い水が包み込み、急速に渦巻いた後で消失した。
そうして現れた巨漢は、身に付けたロングコートとつば付きの帽子を軽く整えると、不鮮明な顔で微笑んだのだった。
「では帰りましょうか。魔女殿、ご助力に感謝します。また貴女の城にお礼を送っておきましょう」
「うん? お礼は別に──あっ、そうだ」
今しがた起きた変化に固まっているオリオを置いて、魔女が唐突に明るい声を上げる。
「城に新しい住人が増えたんだ。仲良くしてね」
「それはそれは。今こちらに?」
「うん。あそこ」
魔女が指差した先を見て、オリオはあんぐりと口を開けてしまった。
屋敷の庭の隅、植え込みの裏で彼と同様に腰を抜かしていたのは、スフェンダムで監視対象だった子爵令嬢——アデレード・ラヴィンその人だったのだから。




