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分からない。大陸における人間の立場が、何ひとつ。
アデレードはトラの亜人に抵抗も虚しく連行されながら、遠い目で不気味な森を見詰めていた。
(薬……人間って薬にされることもあるの? この方が何か勘違いをしているだけなら良いのだけど……)
しかも人間の髪や爪などではなく、肉。
もう切り刻まれて焼かれるぐらいしか調理方法が思い付かない。アデレードはさめざめと顔を手で覆った。
「着いたぞ嬢ちゃん! ベネトナシュの屋敷だ! あ、見えないか」
トラの亜人がご丁寧にぐるりと体の向きを反転させると、短いアーチ橋を超えた先に古びた屋敷が現れる。
黒い三角屋根に、葛の葉が這う煉瓦の壁。庭園には薔薇に似た白い花が咲き乱れ、薄闇の中でそれらは淡く輝いて見えた。
「――やぁだ、ガドゥンがまた変なの連れてきた」
そのとき、眼前にグリーンのローブが揺れ、誰かの顔が逆さまに映り込む。
真っ黒な輪郭に、白く浮かぶ歯列。目や鼻、それに相応する凹凸さえも見当たらない扁平な顔に、年頃の少女らしく整えたグレーの髪が乗っていた。
奇妙な顔面を持つ少女にアデレードが息を詰めてしまえば、トラの――ガドゥンが「げっ」と体を翻す。
「ミザ! どっか行け、オイラはベネトナシュに用があんだよォ」
「この女を会わせるの? やめてよね、あんただけでも獣臭くて嫌なのに、何処の馬の骨とも知れない奴をベネトナシュに近付けないで!」
「何だってェ!?」
「獣臭くて馬鹿なガドゥンが来た~!」
ミザという少女は地面にくるりと着地すると、煽り散らかしながら屋敷の方へ駆けて行ってしまう。
するとその先、少女と色違いで紅色のローブを着た妙齢の女性と、同じく芥子色のローブを着た幼い少女がミザを迎えた。双方ともやはり真っ黒な顔をしていて、判別できるのは口だけだ。
「アルカ姉さん、リオ! ほら見て、トラだよトラ!」
「あらホント。早く帰ってほしいわね」
「やだよぅ、トラは嫌、おいはらって」
アルカ、ミザ、リオ。恐らく三姉妹であろう不思議な少女たちは、三者三様の反応でガドゥンを嫌がった。
何故そんなに嫌われているのだろうと考え、いや、まぁ、何かしらがあったのだろうなと、今現在「薬になってほしい」と無茶なお願いをされているアデレードが密かに納得してしまうと。
「だからァ! ベネトナシュのためにニンゲンの嬢ちゃんを連れて来たんだってェ!」
「人間」
「人間っ?」
「にんげん!?」
「ひぇっ」
三姉妹が駆け足でアデレードの前に集合し、まじまじと顔を観察してきた。
「ホントだわ、珍しい。人間の女性ね」
「えー!? どこから来たの!? 弱い人間は一人で出歩かないって聞いたのに!」
「そうだよぅ、どうしたの、おねえさん」
心配されている――。
弱い人間ことアデレードが情けない気分で苦笑いを浮かべたなら、三姉妹の真っ黒な手が彼女の腕を掴み、それぞれが下に降ろそうと試みる。
「乱暴なトラね、こんな非力な女性を攫ってくるなんて」
「ベネトナシュに怒られちゃえ!」
「おこられちゃえ!」
「あー! おいやめろォ! 嬢ちゃんが薬になってくれるかもしれねェんだよォ! 邪魔すんなよォ!」
三姉妹に腕を引っ張られるたびにガドゥンが逃げ回り、そのつど揺れに晒されるアデレード。
何でもいいから一旦降ろしてくれないかと、吐き気を催しながら彼女がよろよろと片手を挙げたときだった。
「あなたたち。おやめなさい」
「!」
ガドゥンと三姉妹がピタッと動きを止めて、屋敷の門を振り返る。
アデレードも遅れてそちらを見遣れば、真っ黒なローブとドレスに身を包んだ長身の女性が立っていた。
目深に被ったフードの下には、三姉妹と同様に顔らしいものはなく。真鍮の装飾に縁取られた鏡が、アデレードたちの姿を鈍く映していた。
◇
古びた鏡で顔を隠した淑女は、屋敷の中に入ってもその素顔を見せることはしなかった。
首まで詰まったドレスは言わずもがな、ローブの隙間から伸びる手までもが黒いレースのグローブに覆われている。異様な出で立ちではあるものの、アデレードにテラスの椅子を勧めたり、茶を注いだりといった所作は、見惚れるほど優雅で洗練されていた。
「ごめんなさいね」
ベネトナシュがティーカップをそっと置いた。
「ガドゥンから話は聞いたわ。彼、どうやら変な勘違いをしていたみたい。貴女を薬にするなんて……そんなことはしないから安心してちょうだいね」
「そ、そうですか。それは本当に……良かったです」
アデレードが安堵するあまり大きな溜息をついてしまえば、貴婦人が微かな笑い声と共に椅子に腰掛ける。
「お名前を伺っても?」
「あっ。わ、私はアデレードと申します。その、昨日ネウスに来たばかりでして」
「昨日? ……お引越し早々、大変な目に遭わせてしまったわね」
アデレードは曖昧に微笑んだ。あわや王族殺人犯に仕立てられそうになったことを思えば、勘違いで連れ回されるぐらいならまだマシかもしれない、と。
そんな図太いことを考えてしまったが、今現在、迷子である事実は変わらない。アデレードは一口だけ熱い紅茶を頂いてから、鏡の貴婦人をちらりと見遣った。
しかし鏡面に映る自分の顔を見ながら話すのは何だか気まずいので、少しだけ視線をずらして口を開く。
「ベネトナシュ様、ライラ様という方をご存知でしょうか?」
「ライラ? 魔女の? ええ、有名よ。知らない方が珍しいのではないかしら」
「そ、そんなに……私、ライラ様のお城でお世話になっておりまして。帰り方を教えていただけると嬉しいのですが」
ベネトナシュは微かに首を傾げて見せた。
乗じて鏡面がきらりと反射したのなら、貴婦人が静かに問う。
「ソレにお願いした方が早いと思うわ」
ほっそりとした指先は、アデレードの左肩を指していた。
戸惑いながら貴婦人の示す方向を追ってみれば、視界をふわりと掠める青白い翅。淡い光を纏う不思議な蛾が、アデレードの肩口に止まっていた。
「ひゃっ!? こ、この蛾……」
昨晩、刺客に襲われた際、トランクに止まっていた蛾と同じ種だ。清らかな月光を体現したかのような色合いに見惚れてしまえば、再び貴婦人が言葉を重ねる。
「それは魔女の分身みたいなものよ」
「分身……ですか?」
「ええ。何か困ったことがあったら、その蛾を探すと良いわ。望めばきっと、姿を現してくれるはずよ」
魔女の分身——だからあの夜、蛾を見付けた直後にライラが現れたのかと、アデレードはハッと息を呑んだ。
どっしりと毛深い胴体とは裏腹に、細い肢を動かしてのろのろと動く蛾を見詰め、そっと手を差し出してみる。肩から指先へ移動した蛾は、そのままアデレードの手首の辺りまで進んでゆく。
あまり意思のようなものは感じられないが、彼女は思い切って声を掛けてみた。
「ライラ様?」
翅がひとつ、ゆったりと羽ばたく。
だが、魔女が現れる気配はない。きょろきょろとテラスを見渡してみたが、結果は同じだった。
「残念、今は忙しいみたいね」
「そ、そのようですね……?」
「なら、迎えが来るまで少しお散歩でもしましょうか」
そう言ってベネトナシュが席を立つ。アデレードは白い蛾を両手に掬ったまま、小走りに後を追いかけた。
貴婦人が向かった先は、屋敷の傍に建てられた植物園だった。黒い鉄格子で統一された壁や天井を背景に、多様な植物が生い茂っている。青い花びらを持つ美しいものもあれば、二人の背丈を優に超える巨大な壺状の植物まで。
アデレードが思わず口を開けたまま圧倒されていると、彼女に歩調を合わせていたベネトナシュがふと振り返った。
「レディ・アデレード。この近くに農場があるのだけど、知っているかしら」
「農場? いえ……」
「そこのオーナーがついさっき訪ねてきたの。貴女がガドゥンに連れて来られる、ほんの少し前よ。従業員が逃げ出したから気を付けてほしいと」
「はあ、従業員の方が、逃げた……?」
話が見えず困惑していたアデレードはしかし、ややあって農場という単語に聞き覚えがあることを思い出した。
『大所帯だから農場はどうかな? ちょうど収穫期で働き手が欲しいって言ってたんだ。君たち、体力もありそうだから適任だね』
農場。収穫期。働き手。
つまり逃げ出した従業員とは、まさか——アデレードがサッと顔を青褪めさせたとき、屋敷の外からけたたましい音が鳴り響いたのだった。




