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「ヴィヴィちゃん、駄目だ。菓子ばっかり食ってたらそのうちブクブク太って病気に掛かって取り返しのつかないことになるぞ。だから飯はちゃんと食え」
肩に乗せたヒツジの少女にぺちぺちと頭を叩かれながら、ルゴールは溜息混じりに居間へ向かっていた。
ヴィヴィの偏食っぷりには毎度手を焼かされているが、これは一体いつまで続くのやら。そろそろ腹を括って、ネウス商会に新設された子育て相談窓口にでも行くべきなのだろうか。
そんな、自分の子供でもないのに……と、ルゴールが静かに眉間を押さえてしまったときだ。
「!」
何かが壊れる大きな音がした。
ルゴールは弾かれたように走り出し、その勢いのまま居間の扉を開け放つ。
目に飛び込んできたのは、白目を剥いて気絶したアデレードと、彼女を荷物よろしく担いで鎧戸から脱走しようとしている大男。
「ガドゥン! 何やってんだ!!」
「げっ」
ルゴールが腹の底から怒鳴り声を上げると、大男――トラの亜人ガドゥンがぎくりと振り返った。
彼は逡巡の末、その獣面をだらしなく弛めて笑う。
「怒んなよ、後でちゃんと返すってェ!」
「信用できるか! コラ待て!」
黒い縞模様を刻んだ黄褐色の背が、しなやかな動きで外へ飛び出す。ルゴールもすぐさま後を追ったものの、厄介なトラは既に庭園から姿を消してしまっていた。
「まずい……初日からコレか」
走ったせいで肩からずり落ちてしまった少女を床に降ろしつつ、庭園の中央——無人の東屋に視線を遣る。
影になった長椅子に目を凝らせば、青白い蛾がゆっくりと翅を動かしているのが見えた。
「ライラ! アデレードが連れ去られた! 聞こえてるなら助けに行け!」
ぴくりと翅が震えた後、蛾はふわりと飛び立った。
◇
「ベっネトっナシュ! ベっネトっナシュ! オイラの絶対女神様ァ~!」
激しい揺れと共に、調子外れな歌声が聞こえてくる。
「ルゴールが珍しく女と歩いてたから何事かと思ったら、まさかニンゲンなんてなァ! オイラったら鼻が利くゥ~!」
続く自画自賛で更に揺れが大きくなり、少しの浮遊感に襲われたかと思えば、勢いよく顔面を強打した。
「ぐぇっ」
「あ?」
逆さまの視界に混乱しながら鼻面を押さえていると、硬い爪が腰に食い込み、軽々と体を引っ張り起こされる。
アデレードは正面に現れたトラの亜人を見下ろし、「ひっ」と悲鳴を噛み殺した。
「起きたか嬢ちゃん! いやァ悪いなァ、もうちょっと我慢してくれや。オイラ、今から最愛の女神様に会いに行かなきゃならねェからよォ」
「め、めがみさま……? あうっ」
再び肩に担がれ、またもや視界が逆さまになる。毛むくじゃらの背中を見詰めていると、先程よりも早く頭に血が上り、アデレードは慌てて両手を突いた。
貧弱な背筋と腹筋をどうにかこうにか活かして上体を持ち上げ、屈強な肩に寄り掛かったが。
(やっと楽になっ――ここ何処!?)
朝方に散策したネウス湖上都市とは全く違う、暗く湿った森。人工物がまるで見当たらない不気味な黒い木々の群れを前に、アデレードはひくりと喉を引き攣らせた。
この大きなトラの亜人が自分を「ベネトナシュ」の元へ連れて行こうとしていることだけは分かるものの、おどろおどろしい森を見ていると果たしてそれが人の形をしているのかどうかは怪しいところだ。
かと言って抵抗したところでビクともしなさそうな巨躯を見下ろし、アデレードは頭を総動員させつつ口を開いた。
「あっあの、あの、すみません!」
「んん~?」
「ベ、ベネトナシュ様とはどういった御方なのですか!?」
咄嗟に尋ねたのは彼自身ではなく、彼が慕って止まない「ベネトナシュ」について。
アデレードは不審に思われぬよう矢継ぎ早に言葉を重ねた。
「先程とてもご機嫌に歌っていらしたので、さ、さぞかし立派な御方なのかな~と思いまして! ええと、あなたの女神様について世間知らずな私にご説明していただけませんか!?」
――貴族社会で身に付けたおべっかは亜人族にも通用するのだろうか。いやいや、してもらわないと困る。
見たところこの亜人は情緒が豊かだし、恐ろしい獣面とは裏腹にお調子者のような空気もある。彼の好きなものに興味と敬意を寄せることで、好印象を与えられる可能性は高いだろう。
あわよくばそのまま解放してくれやしないかと、アデレードが一縷の希望を掛けて揉み手までしてみせれば。
「エヘッ」
獣面があっという間にゆるみ、鋭い爪が照れくさそうに鼻を掻く。
「なァんだよォ嬢ちゃん、分かるヤツだな! ベネトナシュのことならいっっっっくらでも話してやるぜェ!」
「ま、まぁ! ありがとうございます!」
「ベネトナシュはなァ、なんて言うんだ……品? 品のあるレデェなんだよ、レデェ」
「れ、レディですか?」
「それそれ! あとオイラなんかより沢山モノを知ってて、クールだけど優しいんだ」
弾む歩みと語りに合わせて、衣服からはみ出したトラのしっぽがご機嫌に揺れている。
どうやらベネトナシュは理知的な淑女のようだ。これなら出会い頭にガブリと食われるような事態にはならなさそうだと、アデレードが冷や汗を拭っていると。
「ベネトナシュはよォ、山賊に扱き使われてたオイラを助けてくれたんだ」
「えっ、山賊」
「オイラ馬鹿だから、ガキん頃はてっきりアイツらのこと親だと思ってたし、強盗とか殺人が悪いことだなんて知らなかったしで散々でさァ。そんなときにベネトナシュが――」
平然と明かされる悲しい過去にアデレードがつい顔を覆ってしまったのも束の間、無垢すぎるトラの亜人が声の調子を一段階明るくさせた。
「山賊をブッ飛ばして、『行く宛てがないならいらっしゃい』って!」
ベネトナシュのイメージが理知的な淑女から一転、剛腕の女傑へ。
やはり亜人族は基本的に腕っ節が強いのだろうかと、アデレードは昨日まで特に何とも思っていなかった自分の細腕を見詰め、小さく唸ってしまう。
「でもなァ、ベネトナシュは多分、ビョーキなんだ」
「あ……ご病気なのですか……?」
トラの亜人はひどく落ち込んだ様子で頷いた。
「この前、また〈緋衣〉が来ててよォ。薬か何かを置いてったんだ」
「ひごろも?」
「知らねェのか? イシャだよ、イシャ! 全然優しくねー女! ソイツがベネトナシュにこう言ってるのを聞いたんだよォ!」
彼はそこでアデレードの両脇に手を差し込み、幼子よろしく高く掲げ、ニカッと牙を見せつけて笑う。
「『ニンゲンの肉のほうが良かったかも』って!」
「え」
「きっとニンゲンの肉を薬にして飲ませりゃベネトナシュのビョーキが治るんだ! ぜってーそうだ! な、だから嬢ちゃん、薬になってくれや!!」
「む、無理ですぅ!!!!」
アデレードは間髪入れず絶叫を返したが、残念ながらその拒絶は誰にも拾われることはなかった。




