3-1
「あれ?」
ネウス湖上都市の散策を終え、再び城へ戻ってすぐのこと。
いつの間にか姿を消していたライラの行方を案じながら、アデレードは部屋の扉を開けて、ふと異変に気が付いた。
出発する際、処分に困って放置した真っ赤なドレス。あれがどこにも見当たらないのだ。
「……まさか空き巣?」
ネウスに行っている間、この城は完全に留守だった。そこを狙って盗人が忍び込んでいたとしてもおかしくはないだろう。
しかし、それならドレスよりも盗まれたら困るものがあるではないかと、アデレードが慌ててベッドの下を覗き込むと——セシリアから貰った大切なトランクは、きちんとそこに鎮座していた。
「よかった。あのドレスだけなら別に……ん?」
そこで手に触れるやわらかな感触。はたと床を見ると、毛足の長いベージュの敷物が敷かれていた。
傍らに置かれた小卓も、出発前に見た素朴なものではなく、少しばかり年季の入った栗皮色の小洒落たものに変わっている。
極めつけはベッドだ。恐る恐る毛布を捲ってみると、藁や綿を詰めた袋が土台として敷き詰められ、シーツで綺麗に均してあった。
「……????」
これは絶対に、空き巣などではない。
アデレードはぐるりと目を回してから、よたよたと部屋を飛び出した。
「そりゃ多分あいつだろ。ライラが拾ってきた小間使い」
「小間使い?」
城の一階に降りて書庫やら談話室を巡り、居間に辿り着く頃には若干の息切れを起こしていたアデレードは、備え付けの厨房で食料品の整理をしていたルゴールの簡潔な答えに、カッスカスの声で聞き返した。
「俺もしっかり見たことないけどな。掃除と洗濯と城の修繕はあいつが積極的にやってくれてる。多分そのドレスも洗濯物と勘違いしたんじゃねぇのか?」
「ええ!? そ、そんな親切な方がいらっしゃるのですか……!? お礼を申し上げないと」
「あー、やめとけ。極度の引っ込み思案だから見付からねぇよ」
それはもう小間使いではなく家を守る妖精の類いではなかろうか。
ここで暮らすことが決まったのだから一度ぐらいは挨拶をしておきたいところだが、その性格を考慮すると無理に呼び出すのは――などと思い悩むアデレードの気持ちを読み取ったのか、ルゴールが「ふむ」と思案げに顎を摩る。
彼は手にしていた芋を木箱に戻しながら、つと人差し指を上に向けた。
「二階の廊下の突き当たりにベルが置いてある。あれを鳴らせば近くまでは来るから、話し掛けてみたらどうだ」
「! はい、そうしてみます」
アデレードは言われた通り二階へ上がり、自室を通り越して廊下の突き当たりを目指す。
定間隔に並ぶ採光窓の外には、真昼の空と青く霞む山々が広がり、見ているだけで爽やかな空気が肺に流れ込むようだった。
木々の隙間から僅かに見えるフィリネウス湖に目を眇めていると、その奥――恐らく西の方角に一際高い山があることに気が付いた。
「わぁ……真っ白だわ。まだ雪が残っているのかしら」
目の覚めるような青色の中で存在感を放つ、圧倒的な白。麓にかけて黒い岩肌を晒す様子は、見る者に大自然の美しさと険しさを伝えてくる。
絶景と呼ぶに相応しい光景を右手に捉えたまま、アデレードは廊下の突き当たりまで到達した。
(あ。ここ、ヴィヴィちゃんのお部屋だったのね)
角部屋の扉には、可愛らしい黄色の名札が下がっていた。名前と一緒に彫られた小花柄のほか、まるまるとしたヒツジの絵も添えてある。良いデザインだと頬を綻ばせつつ、アデレードは視線を突き当たりの壁へ移す。
目当ての物はすぐに見付かった。華奢な小卓の上、一輪挿しの花瓶と共に置かれた金色のベル。床には大きめの編み籠もあり――恐らくはヴィヴィの衣類と思われるものが綺麗に畳まれて入っていた。
どうやらライラの小間使いとは名ばかりで、実際はヴィヴィの世話係という面が強いのだろう。こと幼い少女の洗濯物に関しては、ルゴールも大いに助かっているに違いない。
「えっと……鳴らせばいいのよね」
細い柄を指でつまみ、控えめに揺らす。
アデレードはあまり経験がないが、貴人がこうして使用人を呼び付ける様をしばしば見かけたものだ。メイドや執事は音を聞くなり迅速に、されど静々とやってくるわけだが――。
「……」
アデレードは微かな物音を捉え、ふと顔を上げた。
小卓の直上、壁に小さな正方形をした鎧戸のようなものがある。だが羽板の隙間からは真っ暗闇が覗き、これが部屋にあるような換気用の窓ではないことは明らかだった。
加えて、その漆黒から細い枝のようなものが数本はみ出し、鋭い先端で探るように壁を叩き始めたのなら、アデレードの顔もみるみる青ざめていく。
「………………あ、の」
哀れなほど引き攣った声で呼び掛けると、ぴたりと枝の動きが止まった。
「私の、お部屋を……その、模様替えしてくださったのは、あなたでしょうか?」
「……」
「あの、ありがとうございました……赤いドレスはもう、処分していただいて構いませんので、はい、何なら、焼いてもらっても」
冷や汗が止まらない。ついでに悪寒も。
アデレードが小刻みに震えながら応答を待っていると、羽板の隙間から垂れていた枝がおもむろに引っ込み。
「!?!?」
何かが編み籠に落とされ、ドタンと思い切り尻餅をついてしまった。
ちらちらと鎧戸の方を気にしながら編み籠に手を伸ばすと、それは。
「名札……」
淡いグリーンに塗装された楕円形の板に、「アデレード」の文字。周りに散りばめられた可憐な草花の意匠をぽかんと見詰め、再び鎧戸を仰ぐ。
羽板の隙間からは、もう何の気配も感じられなかった。
「……名札も、作ってるんだ」
アデレードは間の抜けた声で呟き、放心状態で自室に戻ったのだった。
◇
「――なァ、ルゴール! 開けてくれェ、開けてくれよォ!」
哀れっぽい懇願が聞こえてきたのは、昼食の用意を手伝っているときだった。
ルゴールは大雑把に切った野菜と芋を大鍋に突っ込み、見たことのないスパイスと一緒に煮る傍ら、手際よく丸パンに切込みを入れ、彩りのよいレタスや瑞々しい木の実を挟んでゆく。
アデレードが間の抜けた顔で彼の調理を見学していると、「試しにやってみるか」と丸パンを渡される。彼女は見よう見まねで包丁を入れ――あわや指を切り落としそうになったので、食器を並べる係に落ち着いた。
こんな場面で貴族の娘らしさ、あるいは無能っぷりを披露してしまうとは思いもしなかったアデレードが、しょんぼりと食卓を整えていると、先程の声が響き渡ったという次第だ。
「頼むよォ、オイラ、今度こそベネトナシュによいしょよいしょされてぇんだよォ!」
「よいしょよいしょ」
何をしてほしいのかまるで汲み取れず、ついつい反芻してしまったアデレードは、構わずにスープを煮込み続けているルゴールに視線を戻す。
「ルゴールさん、お知り合いなのでは……?」
「無視していいぞ。一回でも助けたら永遠にこうして縋ってくるんだからな」
「ルゴールゥ!! オイラとお前の仲だろォ!? 頼むよォ!!」
「よし、ヴィヴィちゃん呼んでくるから先に食べてていいぞ」
清々しいほどの居留守を決め込むルゴールに、それ以上何かを言えるわけもなく。
厨房を出ていく大きな背中を見送り、アデレードは所在無く椅子を引いた。
「……」
あれ、と彼女は首を傾げる。
外が急に静かになったが、もしや訪問者は帰ってしまったのだろうかと。
(もっと長引きそうな感じだったけど……)
そわそわと席から立ち上がり、半分だけ開いた鎧戸に近付く。花壇で彩られたこぢんまりとした庭園がアデレードを迎え、そのやわらかな香りが鼻腔をくすぐったときだ。
「おいアンタ」
鎧戸がガコンと大きく開かれ、視界が陰る。
すぐさま毛深い手に口を塞がれたことで、アデレードは悲鳴には届かないくぐもった音を漏らすに留まった。
「ルゴールに頼み込むまでもなかったなァ……? ちょっとツラ貸してくれや、ニンゲンの嬢ちゃん」
獰猛な光を湛えた瞳が間近く迫り、にたりと嗤う。露わになった牙は、おおよそ人のものではなかった。




