68.湯けむり、温泉、国主様
購入した石鹸を使って念入りに全身を洗う。顔も、体も、髪の毛もだ。残念ながらこの世界にはシャンプーはまだないのである。
「……なぜレモンが積んであるんだ?」
洗い場に積んである小ぶりなレモンに、隣に座るリチャードが疑問の声をあげた。髪の毛の泡を洗い流したカイは、ちょうど良いとばかりにそのレモンを手に取り、湯を張った桶の上で果実を潰す。果汁をたっぷり絞って湯に混ぜ、それを頭から被ってみせた。
「?」
よくわからないといった顔のリチャードに、真似してみろとレモンを渡す。髪の毛を洗い終えて同じようにした彼は、「ああ」と得心したように髪の毛を触って頷いた。
石鹸で洗った髪はキシキシするが、こうするとツルンと指通りが良くなるのである。なぜなのかはよく知らないが。レモンの取れない時期は酢が置いてあることが多いので、酸性なのが重要なのかもしれない。目に入らないよう注意だ。
「宮殿では髪は女官が洗ってくれていたから知らなかった。なるほどな」
……箱入りのお坊ちゃんめ。
しっかりと汚れを落とし終え、ようやくふたりは温泉に浸かる。山にあるだけあって、当然露天風呂だ。まだ雪の残る山々が一望でき、絶景である。
「あぁ~……、最高だな……」
こくりと頷いてカイも息を大きく吐いた。
昼間だからなのかはわからないが、現在温泉は貸切状態である。遠慮なく足を広げて伸びをした。少し熱いくらいの湯がたまらなく気持ちいい。
「……それにしても、見られていたな」
ここにくる間のことである。温泉まで向かうのにペラルゴの中を歩いたが、住人にものすごくジロジロ見られた。観光客が珍しいのかと思ったが、あんな看板を並べている国がよそ者に慣れていないものだろうか。カイたちを見て、なにやら小声でコソコソ言い合っているのも気になった。
「お前を見ていた」
そう……か? 見られていたのはリチャードじゃないかとカイは思っていたのだが。なにせ長身で大剣を背負っていて、とびきりの美形である。どう考えても彼の方に目が行くだろう。
「おや、先客かの?」
ふいに響いた声に、カイは固まった。なぜならその声は、明らかに男のものではなかったからである。
ちょっと待ってくれ。まさかこの温泉、混浴だったのか?
ちらりと目に入ってしまった声の主は、見えたら困る場所をタオルで隠してはいたが、確かに裸の女性だった。慌てて目を逸らす。ところがリチャードは彼女をじっと見つめている様子だった。……おい。おいそこの朴念仁。なにジロジロ見てんだ失礼だろうが。それともあれか? イケメンだから見慣れてるのか? 帝国では美女を侍らせてあれやこれやしてたのか? それにしても見すぎだろう……なにをそんなに、睨みつけ、て……?
「隣、よいか?」
淡く湯が押し寄せる感触とともに、その声が近づいてきた。カイの肩が緊張で跳ねる。隣? 隣って誰の。
「のう、治癒術師殿?」
おれぇ!?
耳元で甘く囁かれて混乱していたカイだったが、リチャードに肩を引き寄せられてハッとする。
なぜカイが治癒術師だと知っているのか……は、白いローブ姿でここまで来たのだから知られていておかしくはない。が、なぜこの女はわざわざ目の前のイケメンではなくカイの方に近づいてきたのか。
カイは羞恥や遠慮を捨てて、その女の姿を見た。
黒に近い、深緑の髪の毛。背はカイより少し高い程度なので少女のように見えるが、ずいぶん大人びているのできっと年上だろう。整った顔立ち。余裕を湛えた笑み。──強者が浮かべるような、その表情。
「……何者だ」
低くリチャードが問うた。彼女はころころと楽しげに笑う。
マズいな、と思った。
裸なのだ。当然リチャードは剣を持っていないし、カイだってナイフも呪文カードも持っていない。彼女は十中八九魔術師だ。それも魔力量たっぷりの。ここで襲われれば勝ち目はない。
「そう警戒するでない。妾はそこの治癒術師殿とお近づきになりたいだけじゃ」
「なぜこいつに? 何が目的だ」
「なぁに、本当に仲良くなりたいだけじゃよ。どうじゃ、満喫されておるかの? 可愛らしい治癒術師殿」
細い指がカイの胸板を怪しく撫でる。官能的な仕草に思わず身を引いた。これは……ハニートラップ、というやつなのだろうか。目的はカイ……いや、治癒術師か。しかしなぜ。戸惑いながらも思考を巡らせ、気づく。
この国には治癒術師がいないのではないか。
そうだ、少し考えればわかることだった。竜を祀る自称国に女神を祀る教会があるわけがない。教会がないなら当然治癒術師もいない。
先のリチャードの言葉は正しかった。みんながカイを、治癒術師を見てコソコソ話していたのだ。
「この温泉はよいじゃろう? 妾の国に永住してくれるのなら、いつでも無料で使い放題にしてやるぞ?」
妾の国。そんな言い回しをただの国民がするとは思えなかった。
──つまり彼女は。
「妾はペラルゴ国主、ルージェナ。姫と呼んでくれてよいぞ。歓迎しよう、旅の治癒術師殿とその護衛の方」
すらりとした肢体を晒し、艶然と微笑む。獲物を見定めたかのような瞳が、確かにカイを見つめていた。
健全な青少年が温泉で裸の女に誘惑され続けるなど不健全この上ない。
妙に積極的な彼女に居心地の悪さと若干の危機感を覚え、カイとリチャードは早々に湯を出ることにした。もう少しゆっくりしたかったが仕方ない。ルージェナは「またあとで会おうぞ」とにっこり手を振っていた。
洗濯を頼んでいた衣服はもう綺麗に仕上がったものが置かれていたので、ありがたく身に纏っている。魔術を使えば洗うのも乾かすのもすぐなので、あの国主様以外にも魔術師がいるのだろう。ペラルゴは国と呼ぶにはためらわれるほど小さな独自宗教集落だが、けっして油断できない場所だったのだ。
そうしてふたりは今、例の白い建物に来ている。ここは竜を祀る教会でありながら国主の住居でもあるらしかった。
とりあえず竜の像が置かれた教会の中を見て回る。礼拝堂には黒い絨毯が敷かれ、壁には黒い布がかけられていた。外観が真っ白だったことを思うとどうにもちぐはぐだ。白かった教会内をあとから無理やり黒っぽくしたような、そんな印象を受けた。
「それにしても……アレが竜なのか?」
リチャードが微妙な反応をするのも無理はない。小さな礼拝堂の中心に置かれている竜の像は、その、お世辞にも出来がいいとは言えなかった。ずんぐり太ったトカゲに翼がついているような感じで、妙な愛嬌があるというか、まあつまりは滑稽なのだ。形は全然違うのに、どことなく前世で見たタヌキの置物に雰囲気が似ている。
カイが以前遭遇した竜とは程遠い。だが、色だけはよく似ていた。やや青みがかった黒。
ふいにリチャードが剣に手を伸ばした。
「へぇ~、あんたらが噂のワケあり治癒術師とその護衛?」
いつのまにそこにいたのだろう。礼拝堂の出入り口に背を預けていたのは、鬱陶しそうな長い前髪の男だった。背が高いが猫背だ。帯剣している。声をかけられるまで、カイでは彼の気配を感じ取れなかった。
「……誰だ?」
リチャードの問いに、男はおどけた様子で言った。
「人に名前を聞くときはまず自分からじゃない? いやね、あんたが強いのはわかるよ? おいらこれでも騎士だかんね。でもさぁ、強ければ礼儀を欠いていいわけ?」
「お前から声をかけてきただろうが。無礼なのはそちらだ」
「はぁ~? 言い訳ですかぁ~?」
「…………」
いちゃもんにもほどがある。さすがのカイも失礼すぎるその男を睨みつけた。
ピリピリと緊迫した空気が肌を刺す。男からは殺意こそ感じ取れないものの、明らかな敵意が向けられていた。カイたちが何をしたというんだ。
「ていうかさぁ……治癒術師は知んないけど、その大剣で、ワケありで、こんなとこにいる剣士とか……あんた、手配されてる帝国の死神だろ」
「!」
その瞬間、リチャードが剣を抜いた。




