56.旅の治癒術師
どこまでも見渡す限りの草原が広がっている。
「メェ」
「メェ~」
「メェッ、メェッ」
もしゃもしゃと髪の毛を食まれながら、カイは怪我をした羊の足を治癒した。たちまち元気になった羊は跳ね起き、周りに集まっていた他の羊たちと一緒になって駆け出す。
ふう、と息をついてカイも立ち上がった。
「いんやぁ~、あんがとねぇ。助かったよ旅の治癒術師さん」
『どういたしまして』
紙に書いた定型文を捲って見せた。スケッチブックというか、大きな単語帳のように紙の端に穴を開け、紐で通し捲りやすいようにしたのだ。最初はいちいちノートを開いて見せていたが、面倒だったので綴じられていた糸を解いてこの形にした。
羊の治癒を依頼してきたのは、60歳くらいの男だった。
「そんれにしても、旅の治癒術師なんて何十年ぶりに見たかねぇ。わしらみたいなもんにとっては助かる存在なんよ。昔みたいに増えてくれんかねぇ」
答えようがなくて、苦笑して返す。
彼は遊牧民だった。3組の家族と共に、この高原の広大な牧草地を家畜と共に移動しながら暮らしている。カイは朝夕の食事と一泊を条件に、彼らや家畜たちの治癒を買って出たのだ。
この高原を抜ければ、山に囲まれた小さな国がある。そこに向かう途中だった。
「終わった? 終わった? 遊ぼうよ!」
5~6歳の少女がカイの手を引く。男の孫らしい。
「こぉれ、治癒術師さんを困らせてはいかん。それにもんすぐ日が暮れる。早くテントにお戻り」
「えー!? じゃあじゃあ、テントの中でおままごとしよ!」
引っ張られるまま、いくつかあるテントのひとつに入った。花道楽でも使われていた、ゲルのような大型で組み立てが容易なテントだ。中心の炉には火が焚かれ、今晩のスープが作られている。中はとても暖かい。冬の足音が近づく晩秋。冷えた体がほぐれていく。
少女はおもちゃ箱から人形を取り出し、カイに見せてくれた。この人形も一緒におままごとをするらしい。……懐かしいな。小さいころ灯里によく付き合わされたっけ。
「あたしがママで、この子が子供ね。お兄ちゃんは喋れないから……うーん、うさぎさん!」
……ペットかぁ。
食事を作っていた母親が「こら!」と注意するが、いいんですよ、というつもりでカイは微笑みながら手を上げて制した。遠慮のない子供相手の方が気楽なこともある。
おままごとに付き合っているうちにすぐに日が暮れる。晩餐を終え、落ち着いた頃に口元にほくろがある人物に心当たりがないか尋ねてみたが、ここでも見つからなかった。……焦らず行こう。
「ここで寝てくんなせえ。床で申し訳ないけんども」
男は床にシートを敷いて、暖かそうな毛布を準備してくれた。カイは定型文を組み合わせて応じる。
『大丈夫です。ありがとうございます』
「えー、もう寝ちゃうの? もっと遊ぼうよ!」
「こら! 夜更かしすると死神に連れ去られちゃうわよ!」
「はぁい……」
母親に言われて、少女はすごすごとベッドに潜り込んだ。
死神の話がここまで広がっていることに驚く。
マトリカリアでの出来事は、目撃者も多かったためあっと言う間に周辺諸国にまで広まった。あの英雄、火炎の守護神オレクを殺した男。真っ黒な全身鎧、真っ黒な怪しく光る剣。命を刈り取る謎の力。死神の恐ろしさは少々尾ひれが付きながらも、おおむね正しく人々の口に上った。
死神とオレク、そしてアマンダの話は吟遊詩人にもネタにされ、かなり感動的なロマンスに仕立て上げられている。花道楽で上演されていた『アリア国の悲劇』と一致してしまった部分も多いため、色々と話題になっているようだ。
とにかく、死神はおおいに恐れられつつ、人々の興味の中心だった。
「そんじゃ、おやすみねぇ」
「おやすみなさーい」
「はい、おやすみなさい」
3人の声に挨拶を返せないのを少しもどかしく感じながら、カイは目を閉じた。
マトリカリアを出て旅の治癒術師になり、3ヶ月ほど。声が出せないのは不便だが、こうしていろんな人に助けられつつ、なんとかやっていけている。もちらん騙されかけたり、危ない目に遭ったりもしたけれど。
人探しをしながらの一人旅なので、進みはかなり遅かった。モンステラに帰るまで、ひょっとしたらあと一年くらいかかるかもしれない。
この夜はまた灯里の夢を見た。最近、彼女の夢を毎晩のように見る。それも、不思議と楽しかったことばかり。
彼女の生まれ変わりが見つかる予兆だといいな。
翌朝、朝食をいただいてから男たち家族と別れた。姿が見えなくなるまで手を振ってくれる。カイも負けじと、手を振り返した。
目的地の方角もしっかり教わったし、あとはひたすら歩くだけ。足腰もかなり丈夫になったなあ、と思う。
3日ほどで、山に囲まれたピエリスという国へ辿り着いた。1週間もあれば国中全部歩いて回れるほどの、本当に小さな国だ。
どの国でもそうだが、入国には身分証が必要になる。特殊な模様の入ったカードに、出身国と名前、職業が書いてあるのだ。
カイが以前使っていたものは花道楽の一員だった時のものだが、現在はアマンダの計らいで旅の治癒術師と登録されていた。入国審査の老兵が「久しぶりに見ました」と目を丸くする。
「どうぞ、旅の治癒術師さん。大変な時ですが、ゆっくりとわが国でおくつろぎください。歓迎します」
大変な時とはなんだろう?
疑問に思いながらも、難なく入国を終える。石畳の道に、赤や青のカラフルな屋根の家が並ぶ楽しい街並み。観光地としても売り出しているそうで、綺麗な国だった。
まずは宿を押さえ、荷物を置いて旅の汚れを落とす。それから昼飯がてら情報蒐集だ。地元の人が集まっていそうな食堂を選んで足を踏み入れる。が、何やら騒々しい。
「山狩りするかい?」
「いや、もう森の民が動いてるって話だ」
「警備をもっと増やしてもらわないと」
あまり穏やかではない。
カイは定型文帳とノートとペンを手に、近くの男に話しかけた。
『すみません、声が出ないのでこれで失礼します。何かあったのですか?』
「何かって……死神だよ、死神! 知らないのか?」
え?
死神って、あの死神だろうか。きょとんとしたカイに、男は呆れたような顔をした。
「死神が帝国で反乱を起こしたんだよ。もう半月も前のことだぞ?」
反乱!?
半月前といえば、前の国を出て高原地帯に足を踏み入れていた頃だった。そんなことが起きていたとは。
ジェイコブに従っていた死神を思い出す。カイはたしかに彼が脅されているのを見ているのだ。それと何か関係があるのだろうか。
「で、その死神が帝国軍に敗れて逃げ出し、今この付近の山にいるんじゃないかって話なんだよ」
この国の北の山を抜ければ帝国……正確にいえば、帝国領になってしまった国があるのだ。そこに逃げ込んだらしいという目撃情報があり、帝国からも見つけたら捕まえて引き渡せと通達が来ているらしい。入国審査の老兵が言っていたのはこのことだろう。
「噂では帝国軍は死神ひとりにすごい数の死者を出したらしい。そんなバケモノが近くにいるんだ……早く誰かに捕まえてもらわないと、おっかなくて落ち着けねえよ」
『なるほど。教えていただきありがとうございました』
とんでもない時に来てしまった。
できればカイもあの男とは遭遇したくない。さっさと人探しをして、早めにこの国を出よう。そう決めながら、店主におすすめを聞いてそれを注文した。
頬張った仔牛肉の揚げ物がひどくおいしく、いややっぱり少しのんびりしていくか……とちょっと迷ってしまったが。




