幕間 からっぽの小屋
淫蕩の魔女と悪名高きマルティーネは、すっかり朽ちたとある小屋の中へと足を踏み入れた。
「……誰もいないわね」
屋根には穴が空き、壁はヒビだらけ。今にも倒壊しそうなその廃屋は、放置されてかなりの年月が経っていることが伺えた。
ここは彼女が昔、まだ魔術学園を卒業したばかりの頃、闇の精霊と契約するために帝国に密入国した際に出会った男の家だ。警備も監視の目も強い帝国だが、彼女クラスの魔術師ともなると侵入は容易い。現に今回もあっさり密入国して来ている。
かつて出会ったその男はマルティーネの好みとは遠く外れた魔術師だった。
いつもびくびく何かに怯え、挙動も不振な小心者。しかし男は、闇の魔術に造詣が深かった。以前は研究者として帝国の魔術師団に所属していたらしい。優秀ではあったそうだ。
男は魔術師団時代、いくつかの魔術を開発した。それは技術的には素晴らしいものだったが、倫理的には許容できないものが多く含まれていた。
それらの魔術は禁術と呼ばれ、男は帝国の魔術師界から追放された。それでもなお、辺境のこんな小屋で実験を繰り返していた。マルティーネが出会ったのはこの頃である。
闇の魔術のこととなると、男は途端に饒舌になった。研究を始めると、寝食を忘れ没頭した。
気味の悪い男だったが、その知識は素晴らしかった。マルティーネは闇の精霊と契約するまでの間、この小屋を勝手に拠点にさせてもらい、時には男の実験に付き合った。脅して禁術について聞き出したりもした。
結果的に、それらは彼女の役に立った。禁術も一度だけ使っている。
マルティーネが闇の上位精霊と契約したその日、男はたいそう驚いていた。そして興奮もしていた。
『や、闇の魔術師は基本的に、ほほほ他の属性の精霊と契約するのは難しいんだ! ああああとからだと他の属性の精霊と複数契約が容易なのか! こ、これは盲点だった……! 帝国にいたんじゃ気付けない……!』
その言葉にマルティーネは納得した。新しく契約した闇の精霊に、他の精霊たちは怯えている様子があったのだ。
帝国には闇の精霊が多い一方、他の属性の精霊は極端に少ない。帝国には闇の魔術師が多いのではなく、闇の魔術師くらいにしかなれないのだ。治癒術師も少ない。他の精霊が、闇の精霊を避けてしまう。
だから、闇の精霊と最初に契約してしまうと、他の精霊と契約するのが難しくなる。そういうことなのだろう。なぜ闇の精霊が他の精霊に怯えられているのかはわからないし、マルティーネは興味もなかったが。
契約を済ませたマルティーネは、引き止める男を無視してさっさと帝国を後にしてしまった。もう用件は済んだからだ。そうして、今の今まで男のことなど忘れていた。
そんな彼女が再びこの小屋を訪れたのは、息子を訪ねた先の花道楽で闇の魔術の痕跡を看破したのがきっかけだった。
術者不明の魔術行使。男の研究の中に、似たようなことができるものがあったを思い出したのだ。
遠隔魔術。魔石と精霊文字を使い、遠く離れた場所からでも精霊に指示し魔術を行使する方法。──ただし、この世に存在する魔石は火・土・水・風のみ。闇と光の魔石はなぜか存在しない。遠隔で闇の魔術を使ったとなると、男の闇の魔石を人工的に作るという研究が成功したということだろう。
花道楽での鳥が帝国の仕掛けたものだとすると、男は追放から一転、帝国にふたたび迎え入れられた可能性が高い。あの知識は脅威だ。
……さてあの男の名は、なんだったか。
「厄介なことになりそうね……あら?」
適当に開いた机の引き出しに、いくつかのメモが残っていた。走り書きで、単語だけが書かれている。
「神の骸……揃える……鍵……?」
マルティーネは首を傾げた。まるで意味がわからない。
本棚にはリオンの旅行記や神話関連の本が並んでいたが、彼女がそれらとメモを結びつけることはなかった。
これ以上は何の収穫もないだろう。
そう判断して、彼女はそのからっぽの小屋を後にした。
次章マトリカリア編は11/5から更新開始予定です。




