手術が始まる日
翌朝、手術が予定通りに始まろうとする直前、病院内はいつも以上に静まり返っていた。
葵の病室の窓から差し込む陽の光はひどく青白く、まるで長きにわたって影に支配されてきたこの部屋を照らすのを拒んでいるかのようだった。
葵は完全に意識を取り戻しており、看護師たちによる最後のバイタルチェックを終え、ベッドの上で静かに身を起こしていた。
「アスナ、昨夜は一睡もしていないのね?」
葵が優しい声で尋ねてきた。
その声はどこまでも澄んでおり、数時間後に自らの胸が切り開かれるのを待つ人間にしては、あまりにも穏やかすぎた。
私は首を横に振り、自らの胸を引き裂くような焦燥感と、昨夜のあの不気味な看護師の記憶を必死に覆い隠した。
「今日、あなたがいよいよ手術を受けると思うと、どうしても眠れなくて。でも安心して、執刀医のチームとも話をしてきたわ。この大学附属病院で最も優秀な名医たちだから」
葵が私の手をそっと握りしめた。
「鉄のメスや機械を、あまり過信しないで、アスナ。私の心臓は、修理を求めているわけじゃないの。私の心臓はただ、帰る場所を探しているだけ」
彼女の言葉に、私は言葉を失った。
葵が時折、こうした現実離れした奇妙な発言をすることは知っていた。
そして最近起きた幾つもの出来事が、現に異常であることも分かっていた。
それでも、私はただ無理に微笑んでみせることしかできなかった。
私は彼女の髪を優しく撫で、少しおどけるようにしてその頬をつねった。
「すべてうまくいくわ」
「葵さん、お時間です」
一人の看護師が、冷徹に告げた。
私は葵の手を握ったまま、動き出したストレッチャーに付き添った。
長い廊下を進み、手術室へと向かう。
大理石の床の上でキィキィと鳴り響くキャスターの駆動音は、私にとって冷酷なカウントダウンの音そのものだった。
廊下を進む間、天井の蛍光灯が、葵の不規則に乱れた心拍のリズムと同期するようにチカチカと明滅しているように感じられてならなかった。
やがて私たちは、「手術室」と厳かに刻まれた重厚な両開きの扉の前に到着した。
私が付き添えるのは、ここまでだった。
執刀助手ではなく、単なる患者の同伴者という私の現在の立場では、その聖域に立ち入ることは許されない。
その医療の『ルール』が、その時の私には酷く忌まわしく、憎らしかった。
私は葵に口づけをした。
「ここでずっと待っているから。中の何ものにも、絶対に負けないで」
扉が静かに閉まる直前、葵は最後にもう一度だけ私を見つめた。
頭上の赤いランプが点灯する。
手術が、始まった。
扉が完全に閉ざされ、その赤灯が灯った瞬間、私の周囲の世界は唐突に、耐え難いほどの静寂に包まれた。
自分の呼吸音さえもが、異質なものに聞こえるほどの静けさだった。
私はその鉄の扉の前で、完全に硬直していた。
さきほどまで葵の手を握っていた手のひらは虚しく空を切り、激しく震えていた。
医学生としての理性が、これは単なる標準的な外科的処置だと自分に言い聞かせる。
しかし、葵の恋人としての本能が、何かが決定的に間違っていると脳内で叫び続けていた。
誰かに、すがりつきたかった。
この肥大化していく恐怖に飲み込まれて正気を失う前に、私を現実の世界へと引き戻してくれる誰かの存在が必要だった。
私は震える手で白衣のポケットを探り、スマートフォンを取り出した。
そして、一つの名を探し当てた。
石川琴。
「もしもし、琴? 今すぐ...今すぐ大学病院に来てくれない?」
私の声は、惨めなほどに震えていた。
「アスナ? どうしたのよ。完全に正気を失ってるような声だけど」
電話の向こうから、彼女の声が響いた。
「葵が...葵が今、心臓の手術を受けているの。一人でここにいるのが、もう耐えられないのよ、琴。お願い ...」
「今すぐ行くわ。そこにいなさい。まずは深呼吸よ、いい?」
それから三十分後、廊下の突き当たりに琴の姿が現れた。
彼女は、いつものようにどこか緊張感のない、超然とした足取りでこちらへと歩いてきた。
口にはロリポップキャンディをくわえ、少し大きすぎるラフな私服を身にまとっている。
そのボーイッシュで奔放な佇まいは、消毒液に満ちた無機質な病院の環境とは完全に相反していた。
しかし、その見た目とは裏腹に、彼女が私と同じく循環器内科を志す、極めて優秀で明晰な頭脳の持ち主であることを、私は誰よりも認めていた。
彼女が近づくにつれ、ストロベリーの甘い香水の香りが、重苦しい空気を一瞬だけ塗り替えた。
「落ち着きなさい、アスナ。ユウジ先生の腕は確かでしょ? あなたの彼女なら大丈夫よ」
琴はそう言って、私をなだめようとした。
私たちは、待合室の硬いベンチに腰を下ろした。
私はたまらず、琴の肩に頭を預けた。
「アスナ、あなた一体何日寝てないのよ。ほら、まずは水を飲みなさい」
私は琴から差し出されたペットボトルの水を受け取った。
「葵は今、あの奥で戦っているのよ」
私はぽつりと言葉を漏らした。
「彼女が手術室から出てきたとき、私が正気で迎え入れてあげなきゃいけないのに」
扉の上の赤いライトは、冷酷に灯り続けていた。
その不気味な光は、まるで血液の色を模したかのように、まだ汚れのない白い大理石の床を赤く染め上げていた。
あの壁の向こうでは、すでに冷たいメスが葵の肌を切り裂き、二度と閉じることのできない「怪異のゲート」を開いてしまっているのかもしれなかった。
葵の手術を待つ間、何時間もの途方もない時間が流れていった。
石川(琴)は私にビタミン剤や、いくつかの重たい食事を無理やり押し付けながら、呆れたように言った。
「あなたも人間なのよ、アスナ。ちゃんと食べて、休まないと身が持たないわ」
「一度家に帰りなさい。彼女が手術室から出てきたら、私がすぐに連絡してあげるから」
そう言い残し、彼女は実習の任務へと戻っていった。
しかし、どれほど諭されても、私はこの場所を離れる気にはなれなかった。
私の両足は、まるで手術室の前の床に釘付けにされてしまったかのようだった。
しわくちゃになった白衣を着たまま、私はプラスチックの硬い椅子に腰掛け、ただひたすらに「手術室」と書かれた両開きの扉の上の、あの赤いランプを凝視し続けていた。
内側では、葵の心臓が今まさに剥き出しにされているはずだった。
彼女の身体が冷たいステンレスの術台の上に横たわり、自らの肉体の機能を完全に機械へと委ねられ、人工心肺が駆動している光景が嫌というほど脳裏に浮かぶ。
医学生として、その術式は完璧に暗記していた。
気管挿管、胸骨正中切開、そして体外循環の開始。
しかし、一人のアスナという人間に戻った私を支配していたのは、首を絞めつけられるような、圧倒的な「恐怖」だけだった。
一分一秒が、まるで一時間のように長く感じられた。
教科書を開くこともできない。
目を閉じることさえ恐ろしかった。
この場所に漂う消毒液の鋭い臭いは、先ほど琴が持ってきてくれた食事の甘い残香を、暴力的なまでに消し去ろうと、ますますその濃度を増しているかのようだった。




